仏教でひもとくウィズコロナ~星野源の楽曲を手がかりとして~ その⑷
●仏教の役割はなんであるか。仏教の効果はなんであるか。数々の表現があると思うが、この答えの一例に、「仏教は給孤独の教えだ」と言えると思う。
給孤独とは、仏典に見られる言葉で、「給」には「足りないものを足す」という字義がある。「給水」が「水の足りないところに水を供給する」ものであるように、「給孤独」は「孤独に宛行を施す」ことである。
そしてさらに注目すべきことなのは、仏教は、孤独に何か別のものを充当することを良しとしない。孤独への処方箋として、美味しいものを食べようと、気晴らしに旅行に行こうと、お気に入りの映画を見ようと、おもしろい話を聞こうと、スポーツに打ち込もうと、いくら徒に人と交わろうと、孤独はそれら別のもので満たされることはない。たとえ一時的に孤独感が紛れても、そんなものは誤魔化しでしかなく、根本的な問題は一向に解決しない。
金子大栄の言葉に、「悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。」とあるが、これと同様に、寂しさは寂しさでしか安んじられないのである。
仏教は給孤独。「孤独に孤独を充当」する教説なのだ。それはすなわち、「孤独の自覚」ということであり、「孤独者たちの出会いと共生」ということである。
言い換えれば、「寂しさに裏付けされた尊いものに気づき」、「寂しさを知る人だからこそ持っている優しさに触れて救われる」ということである。
さらに、親鸞の言葉に置き換えて述べれば、『歎異抄』にて描かれる親鸞は、信仰上の迷いを抱えた門弟たちに「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」と言われる。
これは一見、突き放すかのような言葉に思えるが、信仰の決断は誰も代わることができないという、厳粛な事実がそこにあるからで、親鸞は「いいから私に従って念仏しなさい」というような態度はとられない。
けれども、迷える門弟たち個々の選択を尊重した上で、「我が愚身の信心とはこのようなものである」と、自身の信仰を赤裸々に語って聞かせてもいる。つまり、親鸞には「面々の御はからいなり」と言いながら、「念仏によって、自ら自身の人生を生きるものになってほしい。(貴方は自身が無有代者であることに目覚められよ)」という門弟への願いも同居しているのだ。
また、『御臨末の御書』に描かれる親鸞を見てみると、親鸞は、「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」と言われている。
それぞれの来歴を背負いながら、同じ阿弥陀に帰依し、同じ浄土を欣求し、同じ本願を共有し、それぞれの孤独を共有する、この同信の間柄に於いて、一人ぼっちということはない。必ずそこに親鸞がおり、みんながいる。
「大丈夫。貴方は一人ではない」ということだ。
Ⅰ-④ まとめ
賛否両論飛び交った、首相が星野源の「うちで踊ろう」を、緊急事態宣言下のステイホームの呼びかけに利用したということの何がまずかったのか。様々な理由があるだろう。散見する声には、「国民が我慢を強いられている状況で、優雅にお茶を飲む様子が悪趣味に映った」とか、「国民のささやかな楽しみに土足で踏み込んできた厚顔無恥さ」とか、「星野源の人気に便乗し、首相としての株を上げようとした」とか、「「うちで踊ろう」が築き上げてきたムーブメントを横取りした」とかが、一部の国民の怒りとして噴きあがっていた。
これらの意見は一定の説得力があるし、怒る気持ちもわかる。「馬鹿にすんな!」という当然の主張だ。しかし、ステイホームは道義的に正しく、この楽曲利用も法律的にも全く問題ない。
では、何がまずくて、賛否両論巻き起こったのだろう。私自身、この原稿で賛否や是非を判じたいわけではないが、何だか拭えない違和感があるのだ。そこで、振り返って私なりに考えてみる。
まず、これまで見てきた通り、星野源の考える集団論・社会論においては、〝ひとつでいることを持続させることができる人たち〟よりも、〝全員が違うことを考えながら持続できる人たち〟のほうの重要度が高い。
もちろん「うちで踊ろう」にもこの考えが通底しているだろうが、首相側は星野源の思いとは裏腹に、当楽曲を〝ひとつでいることを持続させる〟ための道具として使ってしまった。
つまり、秘めたる思想性が180度違う星野源の楽曲を、無理やり国民統制の号令に用いたわけで、ここでの「うちで踊ろう」は国家総動員のスローガンになってしまっている。
このように、楽曲自身のメッセージ性と、楽曲の用途(消費のされ方)との相性の悪さが違和感の正体だったのではないだろうか。
そして何より特記すべき、違和感の根源的な原因は、「星野源の詩の持つ語感と、首相側の詩に対する語感どうしのズレ」だと私は思う。ひとつは、「うち」という語の解釈の違い。当時の菅官房長官は、あの動画の狙いについて、「若者に外出を控えてもらいたい旨を訴える」とはっきり述べているが、これは星野源の楽曲発信の意図とは全く異なっている。
そして、「孤独」という語に関する捉え方の違い。
首相の投稿文は、医療従事者と非医療従事者とを仕分け(分断)し、非医療従事者が「友達と会えない。飲み会もできない」状況を我慢することで、医療従事者の負担の軽減になると述べている。
また、この論の上では、他者との交流が妨げられる状態、また、「ひとり」という状態は、非日常であり、ネガティブなもの、避けるべきものとして認識される。
一方、星野源は、楽曲を受け取ってもらう対象を、医療従事者と非医療従事者とに区別しているわけではなく、誰しもへ一様にこの楽曲を発信している。
加えて、「ひとり」という状態を忌避すべきものとは認識していない。「ひとり」を非日常のものとも、ネガティブなものとも、ポジティブなものとも位置付けずに、むしろ、人生はそもそも「ひとり」のものだと見据えている。
そして、その「ひとり」から出発している音楽が、様々な人との出会いと交流(コラボレーション)によって、多くのつながりと感動を生んだ。
我々は、ひとつの楽曲の成長を随に目撃したのであり、もともと素敵なものがより豊かものへとなっていくという一連の出来事を目の当たりにした。
そしてそれは、巧まずも、仏教的思考回路の具現化を目の当たりにしたということでもあったと思う。
⑷おわり。おしまい
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