【連載】かくれ念仏/No.18~川辺の真宗信仰の由来と、或る二つの西郷論~
●川辺の真宗信仰の由来と、或る二つの西郷論
『大西郷の悟りの道―「敬天愛人」とキリスト教」(坂本陽明 著/南方新社/2015年)という著物がある。西郷の思想が儒教(特に陽明学)に拠ると考えられてきた定説に対し、本書は、西郷とキリスト教の接点を丹念に検証し、西郷のモットーである「敬天愛人」を、陽明学とキリスト教との止揚であると論じている。
この本では、川辺地域の真宗信仰の起こりについての言及もある。「当地の豪族である川邊一族が、島津氏が日蓮の法華宗を信じていたことに対抗し、佐賀から一向宗をひそかに招聘し、地下に潜行して宗教を奉じる「隠れ念仏」を信仰するに至らしめてもいた。」と記しており、やがて時代が下り、郡方(こおりかた)(役所と税務署をかねた職責)に就いていた西郷隆盛と川邊一族が出会って親交を育むうちに、明治期には西郷が聖書を持参し、その教えを講義するようになったと書かれている。
これは、2007年に開催された西郷南洲顕彰館主催の「西郷と聖書展」に来られた、当時の川邊家当主川邊二夫氏の証言によるものだという。
さらに、本書で著者は、「自然法爾」の語句を親鸞の用例を以て解説しながら、これを「providence(神(天)のはからい)」であると捉えている。また、儒教の思想の中に見られる「致良知」を「天に生かされて生きる」という一つの感得と関連付けて説かれている。
ところで、鹿屋市には、ハンセン病患者の国立療養所である星塚敬愛園がある。地名の星塚原と、西郷隆盛の「敬天愛人」の語から命名された施設だ。
2021年4月、九州教区解放運動推進協議会ハンセン病問題部会主催の「ハンセン病療養所退所者との交流会」にてハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会事務局長から伺った話なのだが、この施設に住む一部の方々が、1998年の第一次ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟を控えていた時分、園内にお説教に来ていた牧師が、「近頃、国家賠償訴訟を企てておる者がいるというが、このような尻馬に乗ってはならん」と述べられたことがあったという。これに対し、糺弾の声も挙がる中、キリスト教徒のT氏は案外けろっとされていたという。なぜ怒らないんだと聞かれたT氏は、莞爾として、「牧師は人間だからね。人間は間違うもんだ。私は神様を見上げながら歩いているからね。」と答えられたという。
私は、このエピソードと「南洲翁遺訓」25条「人を相手にせず、天を相手にせよ」という言葉とがリンクして思われる。この25条のことについては、もはや陽明学を超え、キリスト教的な思想が伺えると、新渡戸稲造や本書も指摘をしているが、Tさんはまさにこれを体現されていたのかもしれない。
話を戻す。真宗とキリスト教の思想の類似点と相違点は、これまで色々と議論されてきた話題でもあるし、鹿児島のご門徒のお宅にお参りに行くと、真宗の仏壇と西郷さんへの信仰物(南洲神社の神棚や西郷像、「敬天愛人」の額など)が同居している所もいっぱいある。
川辺の方々は、はたしてどのようにその教えを聞いたのだろうか…。
さて一方、昨今の稲盛和夫氏(以下敬称略)の西郷観も、ひとつの画期的な西郷論を形成している。
言わずと知れた京セラやKDDIの設立者であり、臨済宗妙心寺派の僧籍も有する稲盛和夫の経営哲学に、あらゆる宗教の教えが吸収されていることは有名だが、特に真宗の「かくれ念仏」の影響が深く底流しており、鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授である神田嘉延氏の論文、『稲盛和夫の経営哲学と仏教観(その1)』、『稲盛和夫の経営哲学と仏教観(その2)』を筆頭に、諸書で詳細な筆録および考察がなされている。
稲盛和夫は数々のインタビューや自著の中で、自身が1937(昭和12)年頃にかくれ念仏の信仰の場に参列した体験を語っている。
『何のために生きるのか』(稲盛和夫・五木寛之 共著/2019年/致知出版社)によると、稲盛の父方の祖母が住んでいた鹿児島市の小山田では、子どもたちの通過儀礼(イニシエーション)として、山奥の小屋での法座に参列し、その儀式の導師から念仏の手ほどきを受けるといった行事があったという。
そしてその稲盛和夫は、西郷の一連の思想を「他力の風」と命名し、体系づけている。稲盛は、「自分の心をきれいにして、利己まみれの心ではなく、人様の為に何かしてあげようという美しい優しい思いやりの心を持つことを、〝利他の心の帆を掲げる〟と表現する。その帆を自分で揚げておけば、必ず他力の風を受けられ、この風を上手くキャッチできるようになり、企業はとてつもない成長が可能である」と論を展開している。
ちなみに、2020年10月2日の五木寛之氏のインタビューにも「他力の風」の語が見られる。PRESIDENT Onlineというサイトに、「コロナ禍の大転換を〝他力の風〟に変えた私の技法」と題して掲載されている。
坂本陽明氏の西郷論にも、稲盛和夫氏の西郷論にも親鸞のかげが伺えることは興味深い。しかし、私はこのいずれにも、真宗学のフィールドから再精査してみる必要もあるのではないかとも思っている。
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