【仏教】身口意を引き取る

法事抄 ④ 

身口意を引き取る

2022年2月の日曜礼拝で、「花のおわり」についてお話ししました。

日本語には花のおわりについての表現が様々あること、また、人が亡くなることの表現も「隠れる」「身罷る(みまかる)」「往生する」「浄土にかえる」など様々あり、その中でも「息を引き取る」という言葉に、深い意味を感じるという話です。

「息を引き取る」という言葉には、最期の息づかいもろともに、自身の生涯まるっと、生死(しょうじ)の一切を受容し、「これが私の人生です」と言って、「人生を引き取っていかれる」という味わいがあります。

では、その人生や自己自身を構成するものとは何でしょう。いろいろと考え方がありますが、仏教では一個人の存在を「(しん/肉体)・(く/言語活動のこと)・(い/精神作用)」という3つの構成要素から成っていると分析しています。
つまり、「からだ と、 ことば と、 こころ」です。
そして、その身口意の為す行いを、それぞれ、「身業・口業・意業」と云い、まとめて「三業(さんごう)」と総称します。

人生や自己自身とは何ぞやというと、それはすなわち「三業の堆積」のことであります。で、あるならば、「人生を引き取る」とは、「自身の三業を引き取ること」であります。

私は最近よく思うのですが、自身の吐いてきた言葉も、やはり確と引き取る重要性があるなあと感じています。
特にそれを感じるのは、テレビで、政治家やタレントさんの失言のニュースを見た時です。

何かまずい放言があった時、社会はその人に対し、 発言の撤回を求めるということがあります。
しかし、そもそも一度言ってしまった発言は取り返しのつかないものです。

そして、その言葉を取り消した体(てい) にしても、かえってその人の考えがより秘匿されるだけです。 何より、まずいこと言ったなら、「撤回」されるべきものというより、糾弾の言葉と合わせて「引き取らせる」べきもの・「引き受けていく」べきものに思えます。


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