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日本語の変化と誤用

「琴線に触れる」を「逆鱗に触れる」の意味で使ってる人がいた、というのを見た。明らかな誤用だが、指摘を受けてもご本人は「自分はこれでいいのだ」という返事らしい。
恥ずかしくて間違いを認めたくないのだろうが、そんな開き直りしてたら同じ言語なのに話が通じない状態になってしまう。

言葉は変化するものとはよく言われる。現在「変化の途中」として、ある程度の誤用を容認するような向きも見られるが、限度があると思う。真逆の意味で使うことをよしとしていたら意思の疎通も何もあったもんじゃなくね?

そういう自分も、テレビのクイズ番組などで「今はこう使われてるが本来はこうだった」という言葉の解説を見て、そうだったのかと思うものと、もう今さら言っても・・・と思うものがある。自分がすでに馴染んでしまった言い方は「今言う!?」ってなるのである。

自分が誤用と知らずそう使うようになった言葉は、本などでその使い方が一般的になってしまってた場合が多い。そこから学習したのである。少なくとも本を出すからには内容は校正され精査されているはずであるから、間違った使い方であれば載らんだろうと。今はそこまで商業本もしっかりしてないのが分かってきたが、少なくとも昔はそう考えていた。というか、金を払わせるならそこはきちんとしてもらわんと困る。この前など「永遠と」がそのまま雑誌に載っていた。おいーーーーーー。編集者アーーーーーー。
商業誌には責任があると思う。間違った情報を流布しないという。「永遠と」はマジ駆逐してください頭が悪すぎる。

最近聞いたもので「うーむ」となったのは、「さわり」は実は歌ならサビのことで、「やおら」はゆっくり、「おっとり刀」は大急ぎのこと、などかな。「さわり」は完全に誤用が広まってるが、どれもほぼ「語感」で惑わされた感じ。でも「おっとり刀」は結構間違えてる人が多いと思うけど(分かりにくいんじゃ漢字で書けや)、「やおら」は個人的に「この言い方でゆっくりだとは思わんかった」やつ。他の人がどう思ってるかは知らない。「やおら立ち上がり」って文を読んだとき、めっちゃ勢いよく立ち上がったと思った。これはどこにも間違いに誘導された責任を問えない。完全に思い込み。
「さわり」もね・・・こんな表面的ぽい語感でクライマックスのことだと思う?なんで「さわり」って言葉にしたのか教えてくれ。

「変化」のほうでは、もう古い話かもしれんが「やばい」がいい意味での「すごい」になってるのとか。これは最初、少数派の誤用かと思ってたら「若者言葉」というか、ある層ではその使い方が定着していた。そのうち自分もそういう使いかたするようになっていた。うわー。そもそも「すごい」が、初めは悪い意味しか持たなかったそうだから、こっちも仕方ないとみるべきか・・・。
少し前の「全然」でも、否定の言葉の前につけるのが決まりだと思ってたら「全然いい」などという言い方が普通になりだした。「全然オッケー」なんて絶対言うもんかと思ってたのに、気づくと口から出ていた。・・・なんでか説明できない。

「鳥肌が立つ」も本来いいほうでは使わない言葉だったそうだが、これは実際、演劇見ててすごいいいシーンでぶわーっと肌が粟立ったことがあり、実感を伴うなら「感動した」の意味になるのもやむなしだろと思う。ぞっとする場合限定の言い方は「サブイボ出る」があるやん。


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