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35歳で疑った発達障害。生きづらさの理解は、私を自由に楽にしてくれた。後編

前編 https://note.mu/livebooksou/n/n9c7e0af41cd9

 問診と心理検査(WAIS-Ⅲ)を受けてわかったことは、能力の凸凹とアスペルガー症候群の軽い傾向があるということ。突出している能力のレベルでほかの苦手なこともしようとするので、そのギャップにストレスを感じたり挫折感を抱いたりしがちかもしれない、という話に肩の荷が一気におりた。心底ほっとした。

 すべてのつじつまがやっと合う。自分の謎が解けていく。そんな感動と共に先生たちの話を聞いていた。

あぁ、できないじぶんでいいんだ~。

 父が学習塾経営者という暗黙のプレッシャー(看板であること、経済的に進学するなら国公立、奨学金の条件など)もあり、幼いころから学業面では「優等生」であることを自分に強いてきた。勉強は好きだったけれど、とくに視覚情報の取入れが突出して優位であることから、一つのこと(人の話を聞く、内面的な活動、考えるなど)に集中すること自体が非常にエネルギーを消費する。小さい時からずいぶんと寝ていたと思う。朝もずっと眠かった。

 今我が子たちの早起きぶり、朝の余裕や健康的な日々の排便など自分になかった生活を目の当たりにし、まったく信じられない気持ち。笑

 ほかにも、世間の「できて当たり前」に対して、違和感とか苦手意識を感じてはいたがそれ以上にすごく無理をしていたんだと、やっとありのままの自分をわかってあげられた。自分をハグできた。

 自分の訴えだけでは信じてもらえない気がしたり、「外で働きたくない」甘えのような取られ方をしがちだったのが、専門家の力を借り、きちんと向き合って自分を冷静にみつめることで、パートナーや両親、子どもなど大事な人の理解を得られるようになったのは大きな喜びだ。

一部、私の場合の特性を書いてみる。

・視覚には強いが聴覚情報には弱く、電話が苦手。

 これは仕事においてものすごく足を引っ張った。電話するタイミングだとわかっても、体が動かない。結果クレームにもつながってしまう。電話より手紙の方が伝わるので紙面を用意したけれど、それはそれで時間がかかる。そうとにかく何をするにも時間がかかるのだ。そして過労。

・ずっと爪がなかった。

 手のデッサンは恥ずかしくて自分の爪を描くのをためらわれた。結婚式の前に、爪噛み矯正でネイルサロンにおせわになるまで爪らしい爪はなかった。満たされなさやストレスからの爪噛み?自傷行為?もっと幼い時は髪をなめていたのをおぼえているが原因が思い当たらなかった。愛情だけはたっぷりある。みたいな家庭だったはず。家族の誰かは必ず家にいたし、孤独がきらいなわけでもなし、心が満たされていない実感はむしろなかった。

 実感といえば数学、数字関連に向き合ってる時がめっちゃ減る。笑 という事実。臨床心理士さんの話ですごく納得したのは、すぐに途切れがちな集中力を、体の一部を刺激し続けることによって保っているのではないか。という見解。これは母に報告したときに、私と同じにほっと安堵したようだ。何か満たされていないのではと気にしていたらしい。

 今の私は鼻を触ったり、何かしら違う形で対処している。なにより、寝る!っていうことに何の抵抗もなくなった。無理しない。それが自分にとって一番必要な時間だと堂々と公言できるようになった。

・聴覚も敏感 耳栓族

 聴覚情報は入りづらくとも、聴覚そのものは敏感で、不要な音、不快な音、とにかく気が散る要素すべてに対してザワツク。

 最近子どもたちも三人三様ではあるが、「うるささ」に敏感に反応するのを受け入れてイヤーマフを購入した。思い返せば私も中学くらいから「耳栓」が欠かせなかった。旦那には気にならないコンセントなどが ジ=== となってる音とか、PCのキーボードのカチャカチャ音もない方がいい。あるいは、耳栓しながら熱唱して勉強する。みたいなこともよくしていた。自分の世界、空間に入りきらないと、本当にやりたいことにありつけない。

 私にとって学校はただただ友人たちと何かを一緒に楽しむ(部活やお祭りなど)ことがメインで、あんなに人がいるところで、座学できるはずがなかった。心底周りのみんながその場で勉強できることが不思議だった。したがって自然と自宅浪人となったのだが、むしろその一年の充実度は半端なかった。笑 一人万歳。

・めっちゃメモ魔。

 聞き取るだけでは頭に入らないことを経験的によくわかってる。でも知的好奇心もあるし、がんばりやだし、完璧主義だし。。だから、とにかく一字一句メモする!それも全く整理整頓されない書き方で。笑 それはずっと変わっていない。今の私の手帳も同じだ。私にしか解読できなかろうと思われる。

・ずば抜けたコミュニケーション能力はむしろ苦手分野からの克服?

 コミュニケーション能力はめっちゃある。しかしものすごい集中を要することだ。昔から、人に会う=仕事モード!だった。それがどんなに親しい人でもだ。何ならその翌日は使い物にならなかったりする。ちょっとお茶する仲、という意味が分からない。いや、話をするでしょ。それってもう仕事やん!

 自覚以前の私は、それを武器にしようとすらしていた。長所だと認識していたし、私と話すと要点がまとまりすっきりしたり、他では話せないことも話せて喜ぶ人が多く、人の役に立てると思っていたからだ。こんなに消耗するのに!!? 

 今は違う。その能力は本当に必要な人、本当に必要な時に使う。自分が会いたい人とだけ会う。それでいいと思えてる。そしてその時にはミラクルが、ものすごいインスピレーションの嵐が自分のうちに起こる。

 疲れるけど、その対話全体が、一冊の小説や、落語や漫才のような、雑多な会話すべてを回収して二人の共通項が導き出されていく高揚と共にある時間が好きだ。

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 この一年、いろんな自分を投げやりじゃなくて、ただありのまま全部好きになれた。あぁこれが私か。って。弱みをきちんと見られた経験は、今年の夏休みの穏やかな生活を導いてくれた。

 今年の夏休みの終わりは、地区の運動会の練習で夜な夜なダッシュして、にわかアスリート。笑 死んでる暇なんてなかった。家族と地域の人との密なつながりを大事にできたことに感謝してる。

 一か月ほどの新学期生活を経て、今

 愛で満たされた自分をあふれさせることができる。

 どんなどん底にも意味がある。

 ちゃんと導かれる場所がある。

ありがとう。これからも一つ一つ自分を味わっていく。

 



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