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京都で見つけた現代路上アート

 京都左京区。ここには平安神宮の周りに京都京セラ美術館や京都国立近代美術館などたくさんの文化施設が集まっている。僕はこの日地下鉄東西線京都市役所前駅から京都京セラ美術館にむかって歩いていた。

 美術館の多い京都は、歩いてみるとギャリーもいたるところにたくさんあることに気付く。昔ながらの街並みや味のある建物を見ているうちに次第にここが大きな美術館なのではないかと錯覚してくる。そんな矢先に僕は出会ってしまった。奴は何気もなくそこにひっそりとうずくまっていたのだ。

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はじめは何かわからなかった。なにか大きな・・・?でもいくら僕でもバカではない。隣の敷地の岩か、または縁石か何かであろうと察しがつく。

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いや!これは縁石ではない!庭の岩でもない!!!道端に誰かが忘れ行ったかのようなたたずまい!なぜこんな場所にこの大きさの石が・・・?。これは・・。いったい・・・?。もしかして誰かが意図的に・・。いやそんなはずはない。こんな大きな石をどうやって運ぶというのか、何よりこんなのが道端に合って地域住民は邪魔ではないのか。これは撤去される寸前か。しかし、もって行かれるそうな素振りは全く見せないこの佇まい。もしかして、大きなトラックに乗ったこの石が意思をもってごろっと逃げ出したのではないか。そんなダジャレを言っている場合ではない。だが、ここでも僕は現実的な脳を持っていた。こんなのは偶然の産物にすぎない。きっとこの周辺の工事をしたときに偶然出てきたに違いない。そうだ。きっとそれをもって行くのを忘れたに違いないのだ僕はそう思い京セラ美術館に足を進めた。

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奴はそこで僕を待ち構えていた。まるでそれは獲物を狙うトラのように大きな体を溶け込ませひっそりとこっちを伺っていた。まさか・・・。これは・・。先ほどの場所から100mもすすんでいない。なのにまた出会ってしまった。ゆっくりとやつに近づいてみる。目を離した瞬間に襲われる。そんな気迫すら僕は感じていた。

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なんなんだ・・・。これは・・・。先ほどの石なんて見る目もないほど大きなそれも四角く形作られた石が鎮座している。この石は先ほどの石とは違う。この形どう見ても何者かが一度手を加えている。こうなると状況は一変する。これは何者かの意思が働いている。つまり、これはアート作品なのではないか・・。いやいやまだそんなことは信じれない。アート作品にしてはあまりにも謙遜しすぎてはいないか?こんな端っこに隠れるようにあるのはいったいなぜなのだ。考えれば考えるほど僕にはわからなくなる。だが、この四角い石が勝手にここにごろっと逃げてきたとは思えない。そのうえこれだけの大きさの石を道端に忘れることなどありえようか、いやありえない!こんなもの、誰かが運んだに違いないのではないか!?僕の頭はもはやこの石によって支配されていた。

では、アートだと考えると何なのだろうか?超芸術トマソンか・・・?確かに保存されているがこいつは動かそうと思えば動かすことができる不動産ではないのだ。となると、李禹煥らのもの派の作品かもしれない。うん。確かに物体の素材をこれほどまでに意識し重力を感じさせるものはほかにはない。うん。やっぱりこれはアートかもしれない。新手の路上アートの一種かもしれない。

僕の周りを地域住民の人たちが通り過ぎる。この作品をこれほど見ているのは僕しかいない。もしかしてこの石は僕にしか見えていない?そんなことはないしっかりとここに存在する。周りの人にこのいわれを聞いてみようか。京都は長い歴史を持つ、もしかしたらものすごいものかもしれない。しかし、僕にはそんなことできなかった。この石のことを「ただの石ですよ」なんて返答されるのが怖かったのだ。もう、僕にとってはこの石は現代アートなのだ。デュシャンによってアートが美術館から飛び出して今ではこんなところにまで広がっている。それでいいではないか。

僕にとって現代アートは僕という個人が”見る”という行為をして初めて成り立つものだと思っている。美術館にあるなしではない、見てその存在を考えることなのだ。

うん。やっぱりこれは現代アートだ。

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