おばあさんを助けて自分が逃げていたことに気付いた

このくらいの体験談が道徳の教科書にふさわしいのかもしれない。

住まいの近くのスーパーで何気なく仁義的な体験をした。乳製品のコーナーを歩いていたら、おばあさんから話しかけられた。

大学では周りが流暢に英語を話していることもあり、意思疎通には苦労しない。むしろ自分の英語がつたなくて申し訳ないくらい。
基本的に地元の高齢の方々はあまり英語を話せるという印象がない。ドイツに来たばかりの時に英語で話しかけたスーパーの店員さん嫌な顔をされてその印象が強くなった。
それ以来は、道を聞かれたりする度に、「私はドイツ語ができません」という有用性の高いドイツ語だけを言って断ってきた。

おばあさんが何かをドイツ語で伝えようとしていることがわかり、いつも通り断ろうとした。
しかし、立ち止まってみると、相手のジェスチャーで上の商品棚にあるバターに手が届かないからとってほしいと言っているのがわかった。

“Ach so, eins oder zwei?”(訳:そうなんですね、一つですか、それとも二つですか?)

知っているドイツ語だけで相手のニーズを聞いて手伝うことができた。手渡した後におばあさんが笑顔と共に「ありがとう、良い一日をね。」と言ってくれたのがこの上なくうれしい。

自分が知っているドイツ語だけでも少しならネイティブの人と意思疎通ができるのかも。そう考えると、自分が今まで、自信の無さを理由に挑戦から逃げてきたことに気付かされた。

逃げずに向き合うことでちょっとした人助けができてしまう。逃げることで人を助けて感謝してもらう喜びも逃していたのかもしれない。


自分は道徳の教科書に載っているような大層な人助けをしたことがない。そういう機会に遭遇したことがないし、理想論じみたことをするのも好きじゃない。ただ、困っているおばあさんにバターを取ってあげるくらいのお手伝いが慣れないドイツ語でできた。その背徳感と達成感でその後の一日がおばあさんの言葉以上に良いものになった。

余程の善人でない限り、人ができるのはこのくらいの善行だと思う。それでも助かる人はいる。道徳の教科書もこのくらいのちょっとしたことから勧めてみてはどうか。
みんなが幸せな社会は、ちょっとした気遣いを各々がするだけでできるはず。

それでは良い一日を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?