行動コンサルのこころのなか(日記)

考えてみると、今までの私は果たして手書きの日記一つ書くにしてもなかなか本音が書けなかった。

だって、いつ誰がどこでこれを読むかもわかったもんじゃないのに。

そんな風に恐れていたのでなかなか自分の中の本音が出せずに苦労していた。ブログにしても、メルマガにしても、講座にしても。
本音を書くと、だんだんネガティブになったり、圧力的な言葉が増えてきたりするんだもの。自分で自分が嫌になっていたんだろうね。

なにをきっかけにしたのか、最近はだんだんとそうでもなくなってきて、やっとこ本音なるものを出せるようになってきたり。
だって、疲れるんだもの。
本音を隠してきれいな自分だけを出していこうなんて、いつまでネコをかぶっていればいいわけ?いいじゃんか、別に。自分そのままを出しても。そのままを気に入ってくれる人だっているんだもの。

そう、最近出会う人は、私の本音とか素を見ても受けれいてくれる人がほとんどだ。私も相手をそのまま受け入れる。それでおっけーって。
だって、嫌なら「じゃ」って去ればいいだけの話だから。

しかし、そもそもだよ。

自分の本音って、みんなどこまでわかっているんだろう。
こうして言葉にしてみようとしても、なかなか「これ!」とジャストふぃとする言葉が出てこないのが実情。

そのあたり、「あぁ、この人はなんて表現が多彩で精妙なんだろう」と感じる人はきっと、自分の本音にも敏感で、ジャストフィットする表現を書くことができるんだろうなと思う。

これは例えば体を動かすことでも同じだと思う。

ダンスなどで、ここをもっと柔らかく連続的に精妙に動かしたい、と思ってもなかなか筋肉が言うことをきいてくれないこともあるだろう。
その点、マイケルジャクソンなんかは到達するところまで到達していたのだと思う。だってあんなに力の入っていない、けれどしなやかで柔らかく美しい体の動きは、体中を熟知し、体中を手名付け、体中を愛しんでいなければ決してできないことだと思うから。

さて、話を私の現実に戻してみよう。
私は一体どこまで自分の本音を捉えられているだろうか。

そうなるときになるのは、「言葉っていったいどこからやってくるんだろう」ということだ。

自分の奥深くにまで潜ってみると、どうも何か”つながる”ものを感じずにはおれない。その源泉からは何かが確かに湧き出でていて、それをどんな感覚で捉えられるか、なのだろうと思う。

例えば、とても細かい目の網目を通してそれを見ることができれば、その湧き出るものが一体どんな組成をしているかも正確に精妙にとらえることができる。一方、荒い目を通してしか見ることができなければ、その表現はそれこそ幼稚なものにしかならない。

では、表現や感覚は、どのようにして精妙にすることができるだろうか?

うぅぬ。

研ぎ澄ます。

その望みあればこそ、だろうか。

今まさに目の前にしているときにこそ、「もっともっと精妙に」と望むこと。すると、今自分の本音を語ろうとするときに、一言言ってみて、「もっともっと精妙に」との思いから、もう一言いいなおしてみて、を繰り返すことができる。すると、そこだけで表現の練習が、脳内での言葉の組み換えが数回は行えることになる。

これはきっと言葉の世界にとどまらず、表現に関わる全てにつながるだろうと私は考えている。
私は書道やお絵描きが好きだ。筆ペンを握って書く線は、同じ線は二度はなくて。何度かいてもなかなか納得いく線はかけなくて。でもそれがまたたまらなく楽しくて。いったい何本目が私の”ホンネ”を正しく表してくれるのだろうか。そんなことを思いながらまた筆を握ることだろう。


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