文化人類学の思考法

今、読んでるよ。
「文化人類学の思考法」
編:松村圭一郎、中川理、石井美保
世界思想社

本屋の文化人類学の棚をうろうろしていて見つけた。面白そうと思ったら、読書メーターで、「読みたい本」に入れていた(笑)

 人は何かの出来事に出会うと、いいか悪いかとか、好きか嫌いかというのを瞬時に判断してしまうんだが、そうした視点そのものに何か違和感を感じることがある。 

 例えば、役所に手続きに行った時に、手続きに違和感があって、ムカついた!!という人がいた時・・・行政批判をするのがよくある流れ。その手続きや役所の人の言動が生まれる背景があるからなんだろうなと思う。

 また、私が関わる福祉の支援の現場では、支援をしている相手が、想像を超える行動をしたり、約束していたのに面談に現れなかったとか、お金を貯めようねって言っていたら借金がありましたとか、仕事をすぐにやめちゃう・・・・などということは日常茶飯事なんだが、その時に支援者は、「なんで?!」という苛立ちや困惑を覚えることがある。同僚の支援者とおんなじように苛立ったり、困惑しない自分がいる。

 どちらかが一方的に悪い、けしからんというよりは、双方の差異から生まれることなんだろうなぁなどと思って、一緒に、いいか・悪いか論に乗れない時がある。ムカついた!と言っている人の味方にもならない自分は、理想主義だったり、甘かったり、冷たかったりするのかなぁと思う。(なので、客観的だよね、冷静だよねって言われたりする)

 そうやって捉える自分の視座は、文化人類学の視座だったのか・・・!!と気づいた。文化人類学って、異国の文化や風習を採集する学問という印象だったんだが、あらゆるところにその視座を生かし、あらゆるところがフィールドになるか・・じゃあ、図書館界隈を文化人類学視点で研究している人っているのかな・・と気になってきた。

以下よかったところ抜き書き

P5
現場に身をおいて他者と長い時間をかけてふれあえば、その人たちのことがたちまちにわかるわけではない。観察者は、必ずしも中立的で透明な存在ではないからだ。フィールドでは、文化人類学者自身もすでにある文化や価値観をもった存在として他者とかかわる。そこでの他者の姿は、まず自分たちの差異として現れる。そして、その他者の存在は同時に、それとは異なる私たちの姿を浮かびあがらせる。そのことをロイ・ワグナーは、文化人類学者は他者の文化をつくりだしながら、同時に自身の文化をつくりだしている、と指摘した(ワグナー 2000)。文化人類学はあたかも異なる文化がそこに存在するかのように学問的に人間を研究しながら、じつは自文化と異文化を同時に発見・発明しているのだ、と。
この差異をとおした他者理解と自己理解の経験は、文化人類学者のフィールドワークに限られたことではない。私たちも日常のなかで、いろんな人との違いを見出し、同時に自分自身を発見している。

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