見出し画像

地上を歩いた神(19)

(2006年3月12日 初版公開)

羊のたとえ話をした後のある日のこと、イエスが神殿の中を歩いていると、何人かのユダヤ人がやってきてこう聞いた。「あなたは本当に救い主であるキリストなのですか?もしそうであるなら、はっきりそうとおっしゃって下さい。」

おそらく彼らはイエスが語るのを聞いたこともあれば、人々が噂することを耳にしたこともあったかもしれない。しかし、どこかでイエスを信じるだけの自信というか、思い切りがなかったのか、本当にこの人物が自分たちが待ち望んでいた救い主であるのかわからなかったのだろう。それならばと、本人の口から直接そのことばを聞きたかったに違いない。おそらく、これは彼らの正直な気持ちであったのだろうと、私は思う。

ところが、イエスは彼らにこう言ったのである。「今までさんざん話して聞かせたではありませんか。それでも、信じなかったのはあなた方なのです。私が父なる神の御名によっておこなってきた奇跡については、あなたも見聞きしたではありませんか。これ以上、何を語ればよいのですか。」

確かに、記されているだけでも、イエスは多くの奇跡を行ってきた。水を葡萄酒に変えたこともあれば、五千人もの群衆を五切れのパンと二匹の魚で満腹にさせたこともあった。水の上を歩いて渡ったこともあれば、寝たきりの人や生まれつき盲目の人を癒すこともあった。

ところで、今の時代これだけの奇跡を行う人がいれば、すぐさまメディアに取り上げられ、あっという間に世界の知るところとなるであろう。もっとも、世界中に奇跡が伝えられたところで、人々が信じるかと言えばそうでもあるまい。なぜ信じないかといえば、奇跡というものは私たちの理性だの知性だのといったものを超えているからではないだろうか。(だからこそ、奇跡なのだろうけど…。)どうやら人というのは、理解できないものを否定する傾向にあるらしい。ほとんどの人は、生まれつき目の見えない人が、目に泥を塗られただけで目が見えるようになったなどと聞かされても「そんなことあるわけないじゃないか」とまずは思ってしまうであろう。奇跡が起こって、それが奇跡だと、素直に感じることのできる人は、よほど信心深いのだなぁと思う。私なんかは「まさかそんなぁ、あるわけないよな」と考えてしまうタチである。ガリラヤのような片田舎出身の大工の倅でしかなく、ろくに宗教教育も受けていないイエスという名の男が、神の遣わされた救い主だとは、それこそきちんと教育を受けたユダヤ人たちの常識では考えられないことであったろう。そんな彼らに、イエスは最後にこう言った。「私と父なる神とは、ひとつなのです。」

結局、イエスは彼らに自分の正体を明かしたことになるのであろう。それを聞いて彼らがイエスの前にひざまずき礼拝するかと思いきや、なんと彼らはイエスに石を投げつけようとしたのである。以前にも書いたように、彼らにとっての石打ちとは子供の小石の投げ合いではなく、相手が生き埋めになるほどに投げつけることを意味するので、すなわち相手を殺す意図がなければやることはないのだ。いきなり手のひらを返したような態度をとられてしまっては、たまったものではない。

さすがにイエスもこれには怒ったのだろう。黙ってその場を立ち去らずに、彼らにこう聞いたのである。「今まであれほどの奇跡を行ってきたのに…一体何が気に入らなくて、私を石打ちにしようとするのか?」

「違う。自らを神としているからだ!神への冒涜だ!」

「私が、父の御名によって奇跡を行っていないのであれば、私を信じないでも構わない。しかし、もしそれらのことが父の御名によるものであれば、それらの奇跡を信じなさい。これは、あなた方が私が誰であるかを知ることができるようにと、行われているのです。」

二千年前の数々の奇跡を読むと夢物語のように思えてしまう。しかし、それが事実であるのならば、そこに見ることができるのは神の力なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?