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2006年ウイグルの旅 3*ホータンへ

 チャーターしたバスでタクラマカン砂漠へと踏み出した我々取材班(ぜひとも石坂浩二さんのナレーションで脳内再生ください)。砂漠を半分ほど進んだとき、事件は起こった。

※ なお前回の投稿でおなかを壊したと書いておりますが、事件はその関係ではありません。どうぞご安心ください。

タクラマカンの真ん中で

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 思えば沙漠公路に入ったばかりのとき、すでにその前兆があったのだ。

 道にトラックを停め、トラックの作る日影に二人の男性が座っていた。なんでもトラックが故障したが、修理するための部品がなく動かすことができず、何日かそこで待っているとのことである。(本当だったのだろうか……しかし好んで炎天下の砂漠、しかも夜は冷える、そんな場所に寝泊まりする酔狂な人はいないだろう。)

 前の記事にも書いたように、砂漠では困った人は助けるという暗黙の了解がある。我々も買い込んであった西瓜をおすそ分けしたのだ。

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サラサラというより、乾燥しすぎてふわふわな砂

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 砂の道路への浸食防止のために植えられた植物の向こうは、砂しかない灼熱の世界が広がっている。

 さて我々は車を進めていたが、問題が起こったのは先述したように砂漠を半分ほど進んだところ。

 バスのタイヤがパンクしたのだ。

 しかも手持ちの道具だけでは直せない、とのこと。

 先ほど見かけたトラックがフラッシュバックした。道具の到着を何日か待っている、何日か待っ……て……。

 きっと何台かの車が気にして声をかけてくれたのだろうが、私はといえばおなかの調子が悪くぐったりしていたのであまり覚えていない。そして一台のバスが通りかかり、我々の運転手さんが声をかけ、何か道具を借りることができた。さてさて修理か? と思いきや、その道具では直らないことが発覚する。さらに炎天下で待つ。再びバスが通り、運転手さんの交渉。今度こそ、修理できる道具を借りることができた。

修理中の乗客は

 タイヤのパンクの修理ということは、車両が持ち上げられないといけないということだ。つまり、乗客は車を降りる必要がある。

 思い出してほしい。外は砂漠、痛いほど照り付ける日差しを遮るものは何もない。

 仕方がないので、我々はバスの周囲にわずかに出来たバスの陰に入ることにした。午後の日差しはわずかに、バスの東側に陰を作っていた。幅は大人一人がようやく入ることができるくらいだ。バス沿いに一列になって貼りつく。ほかの人たちはまだいい。きつい、だるいと言いながらも西瓜を切ってかぶりついている。私も一切れもらおうとしたら、「おなかを壊しているときには西瓜を食べてはならない」という教えを授けられた。古いウイグルの教えだろうか……。目の前がくらくら揺れ始めた私はトルファンで買っておいた乾燥ハミ瓜をかじってしのいだのだった。甘さが乾いた体に沁みわたった……。

ニヤの町を通りホータンへ

 午後5時ごろだったろうか。パンクの修理が終わった。はっきりとは覚えていないが、2時間ほど経っていたのではないかと思う。そこからはまたバスの旅だ。砂漠の残りを突っ切り、ニヤの町に入った。

 聞いたところによると、ニヤは経済的に貧しい場所なのだという(2006年当時)。明日の食べ物にも事欠くような事態もあったとか。ニヤの町には車は停まらず、我々はホータンへと進んだ。

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ホータンの朝日は白い

 何日もバスにゆられる日々が続いていたので、いい加減体を動かしたくなっていた私は、ホテルの目の前の広場をジョギングすることにした。それが上の写真の広場である。

 カシュガルの夕日には色がついていたが、ホータンの朝日は白い。どこかで見たような太陽だと思ったら、福岡に黄砂が飛来しているときの太陽の色だ。ホータンは乾燥しているため、大気中に舞う塵やほこりが多いのだろう。

「はじめての日本人」

 ホータンでは町にLANケーブルを買いに出た。お店に入ると、『テルマエ・ロマエ』にいわゆる「平たい顔族」である私の顔を見た店員さんが「アンタこの辺の人じゃないね?」と言う。「うん、日本人だよ」と答えると、店の奥で向こうを向いて仕事をしていた店員さんたちが一斉にこちらを見た。いわく、日本人を見るのが初めてだったのだそうだ。

 聞くところによると、彼らが見る「日本人」とは、テレビで放送されるドラマ、しかも戦時中のことを描いたドラマの中で残虐な行為をする日本軍の兵隊なのだそうだ。だから、私のようにのんびりぽっちゃりな日本人もいるのだ、と驚いたのではないかということだった。

 次の町はポスカム(ヤルカンドと書いていたのは間違いです。お詫びして訂正します)、オイルマネーに栄えるという町だ。

(続く)

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