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#116「根源」を考える

※所々過去のnoteの焼き増しですが…🙇‍♂️
あと長いです🙇‍♂️

僕は幼少期の出来事や経験が人格を完璧に形成すると思っている。
家庭環境・友達付き合い・ご近所付き合い。
どれだけ些細だろうがあまり関係ない。
育ってきた環境は‘人格’に関わる。
なぜならその時はそれが”世界”だから。
友達に嫌われたら人生終わりなんだ、と本気で思っていた。


いや、今も思っているのかもしれない。


自分のnoteを読み返すと「自意識過剰」の話が多い。
多すぎる。
noteを始めてすぐの去年の夏頃は、幼小中頃のいろんな話を全部「自意識過剰」で片付けていた気がある。
このnoteを書くにあたって考え直してみると、幼小の頃は「自意識過剰」なんてそんな複雑な話ではなかった気がしてきた。
おそらく、当時はただ単に恥ずかしがり屋さんなだけだったんだと思う。

幼稚園の入園式

僕は物心ついた時には既に人前に出ることが苦手だった。
親から聞いた話だが、幼稚園の入園式の終わりに園児で集合写真を撮るはずだったらしいが自分だけ母親の膝の上から動こうとしなかったらしい。

恐らく、小4くらいまでは単なる‘恥ずかしがり屋さん’なだけだった。
でもそれが変わったタイミングをなんとなく覚えている。

児童会と転機

小4の3学期、‘児童会’なるものの募集がかかった。
中高で言う生徒会的なやつだ。
帰りの会で担任が「興味のある人は放課後先生のところに来て下さい」と言うので行った。
6人くらい集まっていたと思う。
まあまあ強めの言葉で「誠意を持ってやれるのか」と嗜められ、僕は児童会に入るのを諦めた。
諦めた理由は「人前に出るのが恥ずかしい」なんて単純な理由じゃなかった。
なんとなく、自分が‘真面目’だと思われるのが嫌に思えたからだ。
真面目ではなかったのかと言われれば恐らくそうではない。
どちらかと言えば真面目の部類に入れられると思う。

ポケモンのブラックホワイトだったと思うが、自分の性格を登録できた覚えがある。
そしてそれを「まじめ」にするくらいにはその自覚があった。

人生で初めて人目を気にした瞬間だと思う。


僕は出来上がっているグループに後から参加するのが昔からずっと苦手だ。(もちろん今も。)
だがその理由も小4の冬を境に「恥ずかしい」と「自意識過剰」の二つに分けられる。

鬼ごっこ

小学校低学年の時、家の中で一人LEGOをしていたら外から鬼ごっこをしている声が聞こえてきた。
自分も混ぜてほしくて玄関を出たが、みんなに「鬼ごっこ混ぜて」とは恥ずかしくて言えなかった。
家の前で立っていたら、一つ上の学年の人が自分に気づいてくれて、「逃げてる人が前通ったら笛吹いて教えて!」と言ってくれた。
仲間に入れてもらえたことが嬉しくて、すぐ自分の机の引き出しから笛を取り出し、逃げの人が通るたびに笛を吹いた。
5回くらい笛を吹いた時、一つ上の学年の別の人に「それやめて邪魔」と言われ、すぐ家に帰ってLEGOを始めた。


話の本筋からは逸れるが、「鬼決めのじゃんけんから参加してたら鬼ごっこが楽しめたのか?」と言われたらそうではない。
自分は昔から走るのが遅い方だったので、鬼に手加減されたりする。
捕まって鬼になったとしても足が遅くて誰も捕まえらない。
そして、「鬼代わってあげるよ」と助け舟を出される。
この時は「鬼代わってあげるよ」って他人に気を遣わしていることが苦しいというより、みんなで遊ぶことに対して単純に楽しいとは思っていなかった。

公園で野球

通っていた小学校には小2から入れる少年野球のチームがあった。
近所に住む幼稚園からずっと一緒の人達が小2でみんな野球を始めた。
次第に民意は’野球’になっていき、「公園で遊ぶ=野球」になっていた。
最初の頃はみんな野球に誘ってくれていた。(3回目くらいの誘いからはいつも断ってた気がする。)
自分は運動神経が悪く、ボールもまともに打てなかった。
次第にピッチャーが痺れを切らして近づいてくる。
バットに辛うじてボールが当たる。
1塁まで走るが、そこでは気を使われてタッチされない。
3塁手前で大体タッチされる。
そして「後少しで点取れたのにな〜」と煽られる。
スポーツが苦手なのをいつものメンバーに晒すのはギリギリのギリのギリ良かった。
でも次第にみんなの野球友達がそこに加わってくる。
みんなは知ってる仲でも、自分にとっては初対面の学年もわからない人たち。
’体育でサッカーをする時にサッカー部の人から感じる圧’に代表される、「その競技やってる人の圧」を初めて感じた。

空は赤く染まり、あたりも薄暗くなって街灯がついた頃だった。
自分の打順が回ってきてバッターボックスに立った。
自分の時だけめちゃくちゃ前に出てくるピッチャー(友達のお父さん)。
相変わらず球を打てない自分に視線が集まる。
10球くらい投げてもらいやっとヒットを打ち、右に走り出す。
その時、なぜか1塁を駆け抜けてしまった。
そして後ろを見るとボールを持ったピッチャーが追いかけてきていた。
公園の山型の滑り台の上に逃げたり、ベンチの上を走ったりして逃げたあとホームに帰ってきた。
めちゃくちゃ年下に笑われたのをなぜか覚えてる。
あいつらが立ってた場所も、顔も、名前も、外灯の雰囲気も、空の色も、全部鮮明に覚えている。

それ以降、野球に誘われても断るようにした。
野球ができないことを笑われるのが恥ずかしかったから。

後から行くわ

小3の時、とある友達の家で15時からゲームをすることになったが、その日16時までは自宅にいないといけなかたのでそれから参加することにした。
15時50分頃母親が家に帰ってきて、外出の許可が降りた。
固定電話から友達の家に電話をかけ、今から行く旨を伝えカゴにゲームとお菓子をブチ入れて自転車を漕いだ。
友達の家に着き、あとはインターホンを押すだけだったのだが押せずじまいで15分くらい経ち、そのまま家に帰ってしまった。
おそらく、部屋に入った時にみんなにみられるのが恥ずかしかったんだと思う。

授業参観

小学生の時、授業参観が半年に一回くらいあった。
担任は「お父さんお母さん来てるから恥ずかしがらないで」と言ってくる。
小4で『人目』に気づく前の自分は、親御さんとクラスメイトの前で自分だけ立って発言することが純粋に恥ずかしくて手を挙げられなかった。
ただ、『人目』に気づいた後の自分は、クラスメイトに「手をあげて発言とか、先生に媚び売ってんのかよ」とか「真面目だと思われたいんかよ」って思われるのが怖くて手をあげられなかった。

カラオケ

僕はカラオケが嫌いだ。(一人カラオケは関係ない)
高校の時、結構頻繁に行ってはいた。
僕は運動音痴に加えて歌が下手だ。
なんかカラオケ行くとみんな歌が上手くてうざいんだよな。(これは本当にただの純粋な嫉妬)
個人的に「カラオケでみんなが知らない曲とか盛り上がらない曲を歌うのはどうなのか問題」が気に食わない。(そんなこと言うならてめぇ一人でカラオケ行けよと思ってしまう)
ただ、みんなでカラオケ行く時のモラルとしては有名な歌か盛り上がる曲を歌うのが多数派だ。(ボカロはなんか治外法権で何歌ってもいいみたいな雰囲気があって逆にそれも気に食わない)(知らない曲を歌うにしても歌唱力がなかったらカス扱いされるだろうし)
知ってる曲・有名な曲をみんなで探り合う色々な矢印があんな狭い部屋で渦巻いてると思うと反吐が出る。(好きな曲だけ歌っとけや。)
じゃあなんでのこのこカラオケについていくのかというと、自分の場合は翌日の会話の仲間に入るためだ。
もしカラオケに行かなかったら翌日自分に人権がないようなもの。
だから金欠でもわざわざついていく。
会話の仲間に入るために金払っても良くないですかね。
こっちは好んで聞き専してんだからそっとしておいてほしい。
(あと、聞き専多いとなんか不機嫌になる奴はなんなんですかね。じゃあハナから誘わなきゃいいだろ。)

ただ強制で順番で歌うシステムのときもある。
これがまた地獄だ。
高2までの自分は俗に言うエンタメとかサブカルというものに疎かったので、「話題のドラマの主題歌とか今流行りの曲」って言われてもわからなかった。
ただ単に、何巡もするほど自分の知ってる曲のレパートリーがなかった。

そこで編み出した離席する方法があるのでお教えしておきます。
1.コップに氷をじゃぶじゃぶ入れてキンキンのドリンクを作る
2.エアコン直あたりの場所でそれをガブ飲みする
3.★腹ブチ壊し腹痛フェスティバル開幕★
これで何回か歌う順番を飛ばして凌げば首の皮一枚繋がりますよ。

「歌が下手×嫌がっている」人に歌わす理由がよくわからない。
その人が歌ってる間、「歌下手だなぁ」って思いながらみんなスマホするんでしょ?
「別に下手なこと気にしてないよ」みたいな面でみんなスマホするんでしょ?
歌ってる本人も「嫌だなぁ」って思いながら歌うんでしょ?
なにその空間。


「歌いたくないならカラオケ来るな」っていうのが民意なんだろうけど。
ごもっともですよそんなの。


「俺歌下手だからいいよ」と言うと、「俺も下手だけど別にみんな気にしないと思うよ。友達だしさ。」と励ましてくる人がいるが、みんな気にし(て)ないは信用できない。
なぜなら自分は他人の歌の上手い下手を覚えているからだ。
「あの人とあの人は個性的に歌うな」って自分自身は覚えているという事実が何よりも信頼できる判例になってる。

自意識過剰はブーメラン。
自分が思われたくない視点は当人が持ち合わせてることが多い。


歌が下手なことに対してその場にいる人に何て思われているか気にしすぎて疲れるから、僕は(大勢での)カラオケが嫌いだ。
自分が歌ってる時、「気にしてませんよ〜」みたいな顔でスマホをして気を使われるのが苦しいから、僕は(大勢での)カラオケが嫌いだ。

(本当の本当の本当に仲の良い人と行く時はまた少し別です。)


ちなみに幼稚園生の時からカラオケは嫌いです。
幼稚園生の時幼馴染とお母さん方でカラオケに連れて行ってもらったが、当時自分が知っている曲はいとこが出してた曲だけだったので、なんとなくそれを歌ったけど他の人誰も知らなくてすごい雰囲気になったのを覚えてます。



(ラジオリスナー界隈とアイドルオタク界隈の狭間にいる身としては、おそらくこのカラオケの話は絶対誰にも理解してもらえないんだろうなぁと思いながら書いてます。みなさん歌上手そうだし。)




【追記】
「知ってる曲を歌わないといけない雰囲気が嫌だ」みたいなことをずっと思ってましたが、少し考え方が変わりました。
狭い部屋で自分だけが声を出してる環境が苦痛なら、周りの人にノッてきて貰うのが最善策なんですよね多分。
合唱曲とか懐メロとか、サビなら知ってるみたいな曲を歌えば良いんですよね。
知らないし下手のダブルコンボ。
そりゃ聴いてる側も気を使うわって話ですよね。
ごめんなさい。

「恥ずかしがり屋」で人前に出れなかったのが次第に「自意識過剰」で人の目が気になって人前に出れなくなり、そこから自意識過剰だけが一人歩きしだす。

体育

昔から運動神経が悪く、スポーツに対して良い思い出がない。
それゆえに運動系の部活にも入ってないし、何より体育が嫌いだった。
特にチーム戦の競技だと自分のプレーが他の人に迷惑をかけてしまう。
どこの学校にもサッカーとかで同じところにただ立ってるだけの奴いたと思いますが、あれが僕だと思ってもらって構いません。()
運動が得意な人とは絶対に分かり合えないと思うが、本当に動けない。
自分にボールが回ってきても、チームの‘歯車’なんてとても背負えない。
誰も僕のプレーに期待なんてしてないと思っても、一瞬であったとしてもチームの‘期待’を背負うのは荷が重すぎる。
では何からプレッシャーをプレッシャーを感じるのか。
それは「体育でやる種目の部活に入っている人」だ。
特にサッカー。(偏見です)
オラオラしてる勘違い野郎ばっかりだし。(偏見です)
野球部とかにもいるにはいますがサッカー部ほどではない印象。(偏見です)
「あいつサッカー下手だな」ってアイツらに後ろ指刺されるより、体育の意欲がない人って思われる方がいくらかマシなので。
トラップミスして、シュート外して、ゴールもきめられて、チームメイトに色々思われてるんだろうなと考え始めたら止まらなくなる。
心の底では嫌われてるだろうし陰で悪口も言われてるんだろうなと思うととてもスポーツなんかできない。

SNS

ツイッターをしていると、急に「# いいねした人に一言」とかがわんさか流れる時期がある。
これは今のアカウントでもそうだし、高校生の時に使っていたリア垢でもそうだった。
自分にはそれをするメンタルも、されるメンタルもあまりない。
自分がそのツイートにいいねしても、自分の印象なんて相手にはないだろうしわざわざ一言を考えて捻出してもらうのは心が痛い。
人にどう思われているか気になるくせに、印象になんか微塵も残ってないんだろうなと考え始めると色々考えてしまう。
逆に自分がツイートしたところで自分に一言もらいたい人なんていないだろうし、その人望の無さがはっきり「いいね」の数で数値化されてしまう。
質問箱も同じだ。
「こいつ募集のツイートするだけで質問来てないじゃん」って思われるのが本当に怖い。
人望と信頼の無さが数字になる怖さは他の何よりもダメージがでかい。
「人が自分のことをどう思ってるか気になる」とかいう次元の話じゃない。

自分の想像ではなく、事実として信頼がないと突きつけられる怖さは何にも例えられない。

人の名前を呼べない

自意識過剰をこじらせたせいかはわからないが、高校に入ってから人の名前を呼べなくなった。
高3のある日の昼休み、いつものメンバーで飯を食っていた時に「自分は友達の名前を読んでいない」という事実に気づいた。
どうやって会話を始めていたのか今でも不思議だ。
自分で言うのもあれだが、中学の頃から自分の机の周りに人が自ずと集まるタイプだった。
単純に人とコミュニケーションを取ることが苦手なのではなく“自分から会話を始めることが苦手”なんだと思う。
昼休みに飯を食べる友達は全員高校でできた友達だが、とても仲がいい。
文化祭の実行委員で一緒に仕事をした仲なのでまあまあの関係だと思っている。
そんな仲でも僕は名前を呼ぶことができない。
みんなが呼んでいるあだ名なんてもっと言えない。
何故なんだろうか。何故名前を呼べないのだろうか。
自分は比較的あだ名が浸透しているタイプで初対面の人にもあだ名で呼ばれるため、あだ名で呼ばれることにはなんの違和感もない。
でも自分があだ名で呼ぶのには凄い抵抗がある。
「高校から」と前置きしたように、中学までの友達に対してはあだ名で呼べるし、名前で呼ぶのも苗字で呼ぶのも抵抗が全くない。
多分高校の友達の方が仲は良い気がするが、それでも呼べない。
「ねぇねぇ」みたいなことで会話を始めていたのだろうか。
それとも自分からは話しかけなかったのか。
おそらく自分は後者なんだと思う。

いつも飯を食べてるメンバーが一人でご飯を食べていて、さらに自分も一人で食べている。
仲が良かったら「一緒に食おうぜ」って話しかけに行っても良いのかもしれないがそんなこと一回もしたことがない。


それ故、僕は後入り参加というものが苦手なのかもしれない。
「名前を呼べない」ということは話にカットインできないことを意味する。
廊下でいつも話すメンツが4人くらいで話していても、そこに混ざって話すことはできない。
そこに自意識過剰も入ってくる。
自分がいない状態では自分の悪口を言ってるかもしれない。
話してる自分がノれない話題だったら、空気読めないなって思われるかもしれない。
自分がいる必要が0%の場所にはなかなか混ざれない。

何より「今なんの話してるの?」って聞いてくる人のことみんな嫌いでしょどうせ。

嫌われるのって本当に怖いことですからね。



最近大学の人と関わってて、自分が人と関わるのが下手なことを思い出したし思い知らされた。
高校の3年間は周りにいた人に甘えてただけだった。
高校の3年間でそれを忘れてただけだった。

ゲーム

話に最初から参加できていればここまで悩むこともない。
この点では最近は恵まれているが小学生の頃はソレもままならなかった。
上にも書いたが、エンタメやサブカルというものにずっと疎かった。


小学生の時、友達の中で急に流行りだすゲームや言葉があった。
「いっせーのーで」と言いながら親指上げるゲーム、
両手の人差し指を突き出してやるゲーム、
手を握りあってジャンケンするゲーム、
「封印」とか「溜め」を使うゲーム(CCレモンゲームっていうらしい)。
アホが見る豚のケツ、鼻から牛乳、遠心力〜、ナルシスト。
おそらく、ピラメキーノとかおはスタとかからみんな仕入れてきていたのだろう。
その類の番組は親が見せてくれなかったのでその話にずっと混ざれなかった。
休み時間、自分の知らない上記のゲームをみんながやっている。
ルールを聞く人は誰もおらず、あくまで常識としてそのゲームはおこなわれている。
そのゲームを知らないと知られるのが恥ずかしくて嫌で、ルールは聞けなかった。
これは中高に行ってもあまり変わらなかった。
気づいた時にはみんな大富豪のルールを知っていて、「Jバックあり?」とか「8切りは入れる?」とか普通に言い出す。
「そのルールどういうこと?」って言うと、こいつ高校生にもなって大富豪しらねぇのかよとか思われそうで、誘われても参加しなかった。
そして、ルールを教えてもらってる人を見かけると「ルールを聞けるメンタルうらやましいな」と思って悲しくなる。
人狼もそう。
みんな役職を理解してて当たり前のようにやられるからついていけない。

スマホゲーム

友達とスマホゲームをするのが苦手だ。
熱心にスマホゲームをするタイプじゃない。

ある日ウイイレとシャドバを友達に勧められた。
選手の強さやカードの強さ・構成は、特に何も考えておらず、あくまで暇潰しの一環としてやっているだけだった。
だから、「ちょっと対戦しよう」とか言われるのが嫌だった。
「チーム編成の仕方何も分かってないなぁ」って思われてないかとか、「こんなレアなカードこいつが持ってるのかよもったいな宝の持ち腐れだなクソが」って思われてないかとか考えてしまう。


最近、日向坂のアプリが複数リリースされたがそこでもこれが発動している。
IDを登録して友達登録的なことができることはTLを見ていてわかる。
あれって登録した人のスコア的なものが見れる仕様なんですかね。
もしそうだとしたら「こいつよっっっっっっっっわwwww」って思われるのが怖いので始められません。

そういう実生活から離れたくてTwitterをしている側面もある。
リア垢だってあんまり好きじゃない人は全員BBKした。

リスナー交流会

少し前、だれはなリスナー交流会というものがあった。
自分が気づいた時には募集が終わっていたので参加しないつもりだったが、途中で「飛び入り参加可能」という旨のツイートが回ってきた。
何人のリスナーがそこにいるかわからなかったが、最初からいた人が作った空気がそこにあることだけは分かった。
鬼ごっこに始まり、僕はずっと後入り参加というものが怖い。
その場の空気を壊すのが何より怖い。
後から入ってきたことに対して気を使われるのも怖いし申し訳ない。
だから、最初に見た時は参加しなかった。
ただそこから1時間ほど経ってまた「飛び入り参加可能」という旨のツイートが回ってきた。
その間の1時間悩んで、結局交流会に参加することにした。

終わってみての感想は「世の中悪い人ばっかりじゃないんだ」だった。
入った時はお互いにおすすめの番組を紹介しあっていた。
ここにいる人みんなラジオ好きなのかぁと思い、素直に出てきた感想がそれだった。


Among Us、Discordという単語がTLを流れてくるようになって久しい。
自分は流れに完全に乗り遅れた。(自分は乗れるような人間じゃなかったという方が正しい。メールを読まれるようなリスナーじゃないし、かといってFFの人たちのほど熱を持ってオタクしてないし。
何を忘れたくて、何から離れたくて、自分はTwitterで趣味垢を作ったのか。
Twitterの中ではソレは‘界隈’に当たって、見えすぎてる。
少し前、『仲良さそうなオタク・ラジオリスナーのグループっていくつかある気がしますが、メール送るわけでもないしちゃんとしたオタクでもないし社交性もないから結局どこにも参戦できない』とツイートしてしまった。
せっかくこういう界隈にいるし、そういうのに加わってみたい気持ちはある。
’なにか’から抜け出すメンタルを身につけるにはそういうことをしても良いんんじゃないかと思ったりもする。

でも途中参加は苦手だ。
出来上がってる空気に飛び込む勇気はない。
だれはな交流会の後「世の中悪い人ばっかりじゃないんだ」とは思ったものの、やっぱり人が怖い。
やっぱり怖い。


’自意識過剰’に縛られて、今の今まで生きてきて、
やり直したい人生かと言われたら、あんまりそうとは思わない。
今は今で楽しくて、この成り行きが幸せで。
自分が歌がうまかったら、自分がスポーツ万能だったら、
自分がコミュ力化け物だったら、ラジオは聴いてなかった気がする。
考えすぎる性格で良かったなとは思いつつ、
直せるものなら直したい。
ラジオの魅力に気づかない人生は嫌なので。

こういう性格のおかげもあって、自分はラジオが刺さる人間なんだと思う。
そう思ったら「自意識過剰」は自分にとって大切なことなんじゃないかなと思えてきました。

いや、やっぱりこう考えないとやってらんないだけかもしれないです。



これだけ自意識過剰を一生懸命正当化しようとしても、結局自分で書いた「#32『自意識過剰』を考える」に論破されるだけ。
必死に擁護しても、「これってブーメランか…」と思い出すたびに落ち込んでしまう。


SNSの中にもこんな自分は付き纏う。
SNSは現実より‘側’を捨てやすい。
SNS上で嫌われたとて、アカウントを脱ぎ捨てればいい。
現実にはない‘側’の特権を頼る勇気はない。


全方位へのブラフと嫉妬を。


♪マカロニえんぴつ/溶けない
覚えた言葉だけでは 僕は僕のこと話せない
向いてないのかな きっと向いてないんだろな

#自分にとって大切なこと #エッセイ

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