何者でもない
「何者かになる」という探究を成し遂げた人間を俺は見たことがない。
”俺が好きな人たちと読んだ小説の中に”というだけではあるが、見たことがない。
南海キャンディーズの山里さんは漠然と「何者かになりたかった」けど、自身は天才ではないからその差を努力で埋めようとした。モテたい気持ちや嫉妬を燃料にし芸人になった。
ピースの又吉さんは、芸人という変わり者になれば「何者かにならなくていい」と思い芸人になったが、結局は「何者かであること」を求められてしまっている。
又吉直樹さんの著作『人間』に登場する美術系の学生たちは、才能がある「何者か」であることを心の中で信じて止まず、それは主人公の永山も同じであった。別の登場人物の影島は、自身が「何者でもなく普通である」ということを受け入れてそれを武器にして芸人兼コラムニストとして活動している。
朝井リョウさんの著作『何者』に登場する就活生たちは、「自分が何者かである」と主張しなくてはならない就職活動の中にいる。必死に自分を演出する必要があり、現実の自分との乖離が就活を億劫なものにさせる。そして、登場人物の理香が拓人へ向けて言い放った言葉が全てを表している。
統制されたかのように皆「何者」という単語を当てはめるが、誰も成し遂げられていない。
恐らく、本当に無理なんだと思う。「尊敬している人は?」と聞かれた時に5本の指に入るであろう人たちがこう言っているんだから、違いないのだと思う。
『人間』『何者』『何様』という3冊の小説を立て続けに読んだ。読んだことは、全く後悔していない。
主人公の永山や拓人の気持ちが凄く分かったし、「こんな人になりたいな」と思いながら読んでいた。登場人物が隠しきれていなかったプライドと、それが自分にも内在しているという事実。読んでいてキツかった。受け入れたくはなかった。
「プライドが高い」ってなんだろうか。ゲームに負けて拗ねるとか?部活のレギュラーメンバーから外れて居心地の悪さを感じるとか?
自信があったものを砕かれたり、才能がある「何者か」であると思い込んでいたけどただの凡人であると晒された時にその場から逃げてしまいたくなる感情のことだろうか。
”考えすぎ”や過剰に人の目を気にする行為(俗に言う”自意識過剰”)は、「プライドが高い」と揶揄されることが多い。
本当にそうなのか?自分はプライドが高い人間なのか?
自分がプライド高めの人間だなんて思いたくないから、必死に反論を考えようとした。
「自分が間違っていました」となった時、それを認められない。”考えすぎ”や”自意識過剰”に関してもそうで、「お前のことなんかそこまで気にしていない」と励まされたところで覆せない。これまでの自分を否定することになってしまうから、「そうっすよね!俺のことなんて誰も見てないっすよね!気楽にいきましょう!!」とは口が裂けても言えない。”これまでの俺”を裏切れない。心の奥では自分の方が間違っていることなんて理解しているはずなのに、それでも自分が正しいと信じたかった。”これまでの俺”をひと思いに斬ってやることができない。
仮に”考えすぎ”や”自意識過剰”に対して向けられている「プライドの高さ」が負けを認められないという部分にあるのであれば、それには反論したい。テレビゲームで負けて拗ねるような自分が友達の中で最強であると思っている小学生なんかと一緒にされるのは些か不満である。僕らが抱えているのは「負けを認められないプライドの高さ」ではなく、「勝者と肩を組めないプライドの高さ」だと思う。
「あいつダサいな、と思われたくない」「あいつ今段差でつまずいたな、と思われたくない」「あいつもモテなそう、と思われたくない」「あいつのファッションセンス変だよな、と思われたくない」。
「あの人かっこいいな」「あの人ファッションセンス良いな」「あの人すごくモテそうだな」と思われたい訳ではなく、誰にとっての何者でもなく気に留められないモブキャラくらいの存在居たいだけだ。これから先の未来や夢に希望を抱くこともせずに。自分にも期待せずに。他人にも期待せずに。そうやって粛々と生きていきたい。だってそれしか人間としての取り柄がないんだから、俺は。人間を営むのが下手なんだから、俺は。
『人間』の永山の気持ちが良く分かる。
『何者』の拓人の気持ちが良く分かる。
他人をよく観察していて分析ができて、自分のことも俯瞰で見れている。すごく的確なことを言う。それでいて論理があり、悩める人を慮ることができる。だから、こういう人になりたいなぁと思いながら読んだ。気がついた頃には影島と理香が僕のことを斬っていた。それはもうズタズタになるほどに。ぐうの音も出せない言葉を、滝のように浴びた。
たりないふたりの解散ライブを見て、俺は何を学んだのか。もうすぐ一年が経つが、何も変われていない。擬態も適応もできないまま、僕はただここで息をしている。
一年前、「明日のたりないふたり」の感想を書いたところでnoteなんかやめておくべきだったんだろうな。そういう気がしている。
『何者』に出てくる、就活に意識が高めなグループ。小説を読み始めた時、「就活ってやっぱり協力し合ってやった方がいいのかな」とか思ったけど、別にそんなことなさそうだった。多分、焦るだけだろうし。グループでやった方が上手くいく人もいると思う。だったら、グループを作らない方が上手くいく人もいるはずだ。
SNSで大学の人と繋がってそこから交友を広めている人も恐らくたくさんいる。『何者』には登場人物のSNSでのつぶやきがたくさん出てくる。僕は「大学垢」みたいなのを作ることなく、大学三年目の梅雨をもうすぐ迎えようとしているが、これまでやってこなくてよかったし、これからもやらない。そう決心した。『何者』の理香や隆良、ギンジのようなつぶやきをしてしまいそうな気がする。『何者』と『何様』を両方読み終えて、この3人のようなつぶやきを否定的に捉えるのはやめにした。
他人にイラッとしてしまった時、相手の行動原理を考えるとイライラがおさまることが多い。
歩道をチンタラ歩いているカップルがいたら、「彼氏さんの方がひどい腰痛を患っているのかもしれない」とテキトーに理由をつける。そうすることで「じゃあしょうがないか」と心の中のしょうがないの枠に無理やり押し込むことができる。
物語の中で”周りから嫌われる典型的なやつ”がよく出てくる。主人公と同じようにして、僕も「なんだこいつ、クソみたいな人間だな」と思う。でも、物語が進むにつれ一人の人間としての背景を知ると、そんな気持ちがすーっと消えていく。登場人物一人一人に理由を見出せるからだ。
『人間』の仲野や飯島もそうだった。『何者』の隆良や理香もそうだった。『何様』の亮弘や栄子、田名部一家、君島もそうだった。それぞれの口から語られるものを聞くと、納得せざるを得なかった。現実で出会う人全員分のバックボーンを知ることはできない。だからと言ってその作業を蔑ろにするわけではなく、「慮る」という行為に形を変える。全てに動機をつけて、生きていく。
『人間』で影島がした永山の分析、『何者』で理香がした拓人の分析。図星以外の感想はなかった。
noteに書いているようなことを、面と向かって誰かに言う度胸はない。言っても受け入れてくれるわけないと思っているから。それと、ただでさえ少ない交友関係を削ってしまうのが怖いから。
ちょっとずつ本音を隠して、自分じゃない「何者か」の仮面を被る。それを被ったままずっと生きているから、本音を出すのが怖い。noteではその仮面を取れる。でもその代わりにハンドルネームという仮面を被っている。いつでも自分から切り離してリセットできる、効率の良い仮面。
明確に自分とは違う、「何者か」になった気になっている。普段はうまく言葉を繋げないけど、熟考した文章ならばうまく繋げたような気になる。自分の書いたnoteは、投稿した後に2,3回は自分で読み返している。昔に投稿した記事に誰かが反応してくれると、それもなんとなく読み返してみたりしている。読んでもらって反応をしてもらってたまに感想をいただいて、そう言う自分に溺れてるのは明白だなと自分で思った。理香の言うことに、反論なんか一つもなかった。
理香の言葉を借りると、「理想の自分」と「何者か」は異なる。理香の目には、僕は諦めたと言いつつ必死に「何者か」であることを演出している拓人と同じように映ると思う。
「何者か」になるという探究の結末は、往々にして「あくまで”自分”でいる」というものが多かった。「いい加減気づこうよ。私たちは何者かになんてなれない」「自分は自分にしかなれないんだよ」という理香の言葉がリフレインする。
僕が自分が自分のままでいること、「何者か」ではなく「理想の自分」になるためにもがくことを受け入れてくれる人なんてこの世に存在しているのだろうか。そんな人がいるとは到底思えないから、「何者か」に頼ろうとしてしまう。それに頼るのをやめるには、受け入れてもらいたい、という根本の欲を捨てるのが一番近いのかもしれない。欲を捨てたら、”考えすぎ”と”自意識過剰”も一緒に消えてくれるのだろうか。そう簡単にうまくいくのだろうか。20年連れ添ったこいつらと、離れることができるのだろうか。
おそらく、そんなことできないから俺は今ここにいる。
勝者と肩を組めない、そんなプライドを捨ててしまいたい。
”これまでの俺”を、黙らせたい。
オードリー若林さんの言う”価値下げ”をいい加減にやめたい。
SNSを趣味をより楽しむという目的で始めたことに関して、幾許かの後悔がある。
「社会からそれとなく弾かれたモノ同士で肩を組む」なんてことはなく、全力で肩を入れあっている。その様がクソほど滑稽なのに、僕は嫉妬の念を抱いてしまう。タイムラインを見ているとクソほど疲れる。仲の良さをありありと誇示されている気がして、逃げたくなる。そんな僕のサマを、下に見られているような気もしてくる。勝者と肩を組める人を羨ましく思う。だから、そっち側へ行きたい。でも、”これまでの俺”が睨んでくるから、強がるしかない。
『人間』『何者』『何様』、それに加えてオードリー若林さんの『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』と『ナナメの夕暮れ』。
個人的にはめちゃくちゃいい本でオススメだけど、他人には怖くて薦められない。薦める時に、「人を選ぶかもしれないんだけど」と保険をかけてしまう気がする。もしエッセイや小説の内容が合わなかった時に、「こういう話に共感するタイプなんだ」「こんなのを良いと思うんだ」とか思われるのが怖くなってしまいます。僕は胸を張って「読んでよかった本」と思えるのですが、それを振りかざすのは怖くなってしまいます。
自発的に『何者』を読んだ人には『何様』をお薦めしたいし、自発的に『何者』を読んだ人の感想を聞いてみたいです。
#275 何者でもない
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