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人によるし、分かり合えない。

 「自分がされて嫌なことは、他の人にしないの!」と、母親に幾度となく言われてきた記憶がある。別に親の教えを守ろうとしていた訳ではないが、それを心がけることは自分にできる最大限の優しさのつもりではあった。でもそれを掘り起こしてみたら、「自分も嫌だったあの気持ちを、抱かせる側になんてなってたまるか」というなんともプライドの塊のような根源だった。


 俺は誰にも嫌われたくない。そういう八方美人な人を嫌う人だっているだろうから、不可能なことだということも分かっている。でも俺は、こんな揚げ足取りに屈している場合ではないのだ。一つ補足するなら、俺は誰にも嫌われたくないから、そのために自分でできることは全部やりたいのだ。そう思いながらずっと生きている。


 「されて嫌なことは他人にしない」は、失敗の実体験から学ぶということである。これでは不十分だなと思った。最初から失敗しないに越したことはない。まずは「されたら嫌なことも他人にしない」ように心がけた。
 周りの視線が異様に気になってしまう。怯える視線は全て、自分が他人へ向けた価値下げの鏡写しである。価値下げされているように感じるなら、まずは自分が価値下げを止めるしかない。


 他人にイライラすることをやめなきゃなと、レジ打ちのバイト中に思った日があった。
 ポイントカードを準備しないでレジに来て、もたもたして後ろのお客さんを待たせるお客さん。スマホ決済のアプリを会計機の前で立ち上げ始め、レジの流れを止めるお客さん。レシートを財布に入れるのに手こずって、レジの流れを止めるお客さん。雨の日の濡れた折り畳み傘を、平気で買い物カゴに突っ込むお客さん。買い物カゴの底に、車の鍵・財布・スマホが入っていてそれをレジに来た時に無理やり取り出そうとするお客さん。カゴが重くて持ち上げられないなら「重たいんで持ってくれませんか」くらい言えばいいものを無言のままのお客さん。袋はセルフで取ってもらうことになっているのに「袋くれ」と言ってくるお客さん。「飲み物寝かせないでもらっていいですか?」と高圧的に言ってくるお客さん。「お待ちのお客様どうぞ」に全く気が付かずにスマホをしているお客さん。
 お客さんがする行為の行動原理を片っ端からおもんぱかってみた。無理やりでもいいから理由をこじつけて、「なら仕方ないか」と自分をどうにかして納得させたら、イライラせずに済んだ。


 たまに、みんなの善意が交錯しまくってわけがわからなくなってしまう時がある。他人の善意というものは踏みにじり難くてかなわない。誰の善意も尊重したい。だから、それぞれの意見をちょっとだけ捻じ曲げて、やりとりの辻褄が合うようにして、善意を踏み躙ることがいないようにする。その結果自分が怒られたり損をしたりすることも多いけど、それが最良で、他の人が傷付かない(はずなんだ)。


 実家の近所に昔から仲のいい姉妹がいて、この前実家に帰省した時に僕の妹も含めた4人で焼肉を食べに行った。大学3年の僕、3歳下の僕の妹、2歳下と6歳下の姉妹。焼肉に行くことが決まった時から、俺が飯代を払うことになるんだろうなと腹を括っていた。
 焼肉に行った日の当日、母親が飯代で2万円を俺に渡し、「とりあえずお金払っといて、後で細かく精算しな」と母親が言ってきた。お金を渡されるとは思っていなかったので、僕は「今日、完全に焼肉奢ることになると思ってた」と返した。するとそこに「奢るって、結局そのお金もこっちがあげた生活費だからなぁ」と父親がボソッと口を挟んできた。
 一応毎月「食費・生活費需品代」として3万円の仕送りを貰ってはいるが、それとは別にしっかりと自分で稼いだバイト代もあるわけで、買い物をする時に「食費・生活費需品代」と「バイト代」のどっちから支払っているかという線引きくらい自分でやっている。父親に対して明確に「図に乗んな。」と思った。
 焼肉から帰ってきて、俺は母親に2万円をそっくりそのまま返した。母は「え、本当にいいの?大丈夫?なんで?」みたいなことを言っていたけど、良い。父親に言われた「生活費だから」も癪だったのに、別個で貰った飯代の2万円を使うのはもっと癪だった。
 母親の善意は踏み躙った。でも自分も損をした。
 ただ、プライドは保てた。


 実家の近所の姉妹と焼肉に行く時、父親が「4人とも車で送ってってあげるよ」と乗り気だった。「まだ現地集合の可能性もあるけどな」と俺は思っていたが、善意は踏みにじれなかった。
 その旨を若干遠回しに「打ちの父親が送ってくれるらしいけどどうする?」と伝えると、「人数大丈夫?」と返事が来た。遠回しの遠慮なんだろうなと思ったが、父親の善意を踏みにじれない。定員が5人であることを伝えた。すると、姉妹の反応が芳しくなかった。焼肉の日程決めに関しては僕の妹と姉妹に丸投げしていたので知らなかったが、向こうの認識ではどうやらお互いの母親も一緒に行くことになっていたらしく、妹のLINEの履歴を見返したら確かにそうだった。それを妹が連絡し忘れてややこしいことになってしまった。「人数大丈夫?」は別に遠慮じゃなくてシンプルな定員オーバーだったのだ。それが発覚した時、僕の母親は外出をする格好ではなかったが、それを伝えると急いで準備を始めた。これも母親の善意だ。せっかくの姉妹のお母さん的にも「せっかくの機会だしお喋りしよう」という意図があったようで、それも善意である。
 その後カクカクシカジカあり、母親たちは居酒屋、我ら子供は焼肉と、別々で外食することで落ち着いた。これは母親たちの善意だ。急な外出を強いられはしたが、支度を済ませていたであろう姉妹の母親へ向けた善意と言い変えることもできるわけで。
 なんだかんだ、誰の善意も踏み躙ることなく丸く収まったと思う。誰が特段悪いというわけでもなく、多くの善意が行き交った結果、全部を尊重するのが難しくなってしまった。


 一人暮らしを始めてから独りで回転寿司に行くことが圧倒的に増えた。
 家族で言っていた時は1皿1貫の寿司なんて頼めなかったしサイドメニューのうどんや揚げ物なんてもっと頼めなかった。うどん屋に行っても天ぷらなんて手に取れなかった。誕生日でもない限り、外食時にジュースなんて頼めなかった。
 一人だとなんでも頼めて、その度に驚くくらい感動する。実家の近所に住む姉妹と焼肉に行った時も、僕の妹がジュースを頼むのを渋っていた。「昔からうちはこういうの頼ませてくれなかったよね」という話で妹と盛り上がった。だから、俺も一瞬遠慮されたというのがもう嫌で嫌で仕方なかった。妹とはいえどうか遠慮しないでほしい。(※飲みたくないのにジュースを注文する必要は本当にない。やってることはハラスメントと同質。)焼肉を一通り食べ、姉妹が「デザート食べたい」と言い出した。「普通はこうだよな」とそこで思った。メニューの少なさの割にみんなちゃんと吟味して、ちゃんと4人全員がパフェを食った。
 実家に戻り、コンビニで買ったレモンサワーを飲みながら「遠慮されない方法」を考えた。大学の先輩と飲みに行った経験がないから学べない。数少ない飲みの経験も全部同級生とだから、もっぱら割り勘なので学べない。ご時世がコ口ナじゃなければ、これは変わっていたのだろうか。


 ”ジュースやトッピングを頼ませてくれない親”の金、となるとやっぱり引け目を感じてしまう。「あと一杯お酒飲みたいけどやめとこ」「俺は一番安いアイスにしとこ」「3人前で抑えとこ」みたいなことが頭をよぎってしまう。結果として母親の善意は踏み躙ったし、自分も損。そしてそれと引き換えに保ったプライド。食べたいものを遠慮せず食べれたら万々歳だしそれが良いなと心の底から思った。それをするためには、俺が稼いだバイト代じゃないといけない。姉妹に半分お金を払われても困る。あの日は確実に、俺が奢らないといけなかった。
 お菓子をねだる幼稚園生じゃないんだから、もう家庭の教育方針とかではない。


 こと今回の焼肉において、「もし自分が親の立場だったら」と考えた。
焼肉前にお金を渡すか、後にお金を渡すか。前者の方が財布を気にしなくて良いから心置きなく食えるタイプの人もいれば、後者の方は自分のお金だから心置きなく食える僕みたいなタイプの人もいる。(逆も然りで、前者の方は他人のお金だから躊躇してしまうタイプの人もいれば、後者の方は自分のお金だから躊躇してしまうタイプの人もいる。)
 僕の場合、食事前にお金を渡されると「”ジュースやトッピングを頼ませてくれない親”の金」と思ってしまうから変にセーブしてしまう。食事後にお金をもらう方が罪悪感が少なくて得したことを強く感じる。
 でも、真逆の人だっている。
 「されて嫌なことを他人にしない」だけでは、完璧と言うことはできない。そんな感覚、人によるもん。
 俺はされたら嫌だけど、されないと嫌だって人もいる。そういった人間という生物のランダム性・人間味みたいなものを楽しめるようになるのが一番良いんだろうな。


 他人にイライラするのを止めるために、その人に隠れている考えみたいなものを慮るようにしたら、なんの怒りも浮かばなくなった。でも、一時的なものだった。先週、いろいろ重なってバイトが5連勤だった。後半3日間、イライラが止まらなかった。「やっぱこういう人とは分かり合えないわ」と思い出してしまった。
 実家に帰り、いろいろ思うところはあったものの焼肉もたらふく食べられたし、何よりもバイトがなかった。
 昼過ぎに起きてバイトに行く生活が復活し、とりあえず2連勤を終えた。自分でも驚くくらい声が穏やかで、「イライラしないようにしよう」と思うまでもないくらいイライラしなかった。ストレスから解放されるためには、ひとへに休息を取ることではなく「義務から逃れる」ことなんだなと感じた。



 自分の中の「否定することができない価値観」がどんどん増える中で、こっちの生きにくさが一向に解消されないのがもどかしい。いつまでやってんだ、こんなこと。


 わざわざ対外的にやる必要もないのだけれど、僕は自戒の念を込めまくってnoteをやってます。
 それとなく輪からハブかれて、肩身が狭くなって、ハブいてくる奴らもハブかれてる自分も嫌いで、それでもちゃんと生きなくちゃいけない。自分でならいくらでも自分のことを攻撃できるから、打開への淡い希望のために、やってます。
 最初は「虫が苦手」「かけっこが嫌」くらいなものだったような気がする。虫が触れないから輪から弾かれ、かけっこが苦手だから輪から弾かれ、運動が下手で苦手だから輪から弾かれ、文化部だから輪から弾かれてきた。そしてこれからは集団が苦手だから輪から弾かれ、アルコールが得意じゃないから弾かれ、たくさんでの飲み会が苦手だから輪から弾かれ、恋人がいないから輪から弾かれ、妻子がいないから輪から弾かれる。
 自戒はハブかれてきた側のせめてもの抵抗なわけで、お前らの無駄に高いコミュニケーション能力や無駄に広い交友関係と何が違うのか言ってみろ。


 太宰治の『人間失格』にこんな一文がある。

そこで考え出したのは、道化どうけでした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。
太宰治『人間失格』

 こっちの「人間に対する最後の求愛」をあしらってくるのであれば、他人と分かり合おうなんて希望を抱くのは金輪際やめる。「そうだよ、そうだよ、人間なんて、分かり合えるような生き物じゃないんだった。無駄な時間過ごした。あいつら全員クソだったんだわ、忘れてた。理解なんかしてやるもんか。お前らの価値観意味わかんね〜w」って一生思っててやりたい。


#302  人によるし、分かり合えない

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