初恋

「おまえのこと、カッコいいって言ってるやつがいるんだけど」

電話越しの声は落ち着いていた。世間話の延長のような、マックシェイクが今100円なんだって、と同じノリで相手はとんでもないことを言い出した。
わたしは受話器を握り直した。

「田野上 (たのうえ)」、わたしはひとり言みたいに彼の名前をつぶやいた。考える時間が必要だった。「ギャグだったらぶっ殺す」
「うそじゃないって」田野上はちょっと笑った。「この前の文化祭、おまえライブ出てたろ」
「出てたけど」とわたしは言った。「あんたまさか、あそこにいたわけ?」
「うん、いた。学ラン借りて、友達と一緒に乗り込んでた」

我が北高は文化祭であれ他校生の侵入を容認しない。血気盛んな他校生がやってきたら、まずケンカになる。トラブルの種はすべて排除されなければならない。
にもかかわらず中学時代の元クラスメイトが、わざわざ学ランを調達してまで文化祭に乗り込んでいた。
変装したアホどもが門を飛び越えるのを想像する。中学時代も相当アホだったけど、高校生になったらもっとアホになっていた。

「来たんだったら声かけてよ。わたしも会いたかったのに」
「ごめん。ライブで忙しそうだったからさ」
彼は明るい声で謝った。
スタイルがよくて、カッコいいうえに明るい田野上。彼に好感を持たないやつはいない。わたしも彼に好感を持っている。できればずっと友達でいたいけど、高校が離れてしまうとそれもむずかしい。だから彼から電話を受けたときは純粋にうれしかった。

「ぜんぜんバレなかったよ」と彼は言った。「で……おまえのライブを見たオレの友達が、おまえのことカッコいいって騒いでる」
「田野上」わたしはこれ以上できないくらい低い声を出した。「その手にはのらない」
「マジ、マジ。うそじゃないって」あわてたように彼は言った。「でさ、あのイケメンのボーカルって彼氏?」
「違う違う違う違う」言われたこっちがびっくりだ。大あわてで大否定する。「ぜんぜん彼氏じゃない。ていうか彼氏なんかいない」
「そっか。あれ絶対彼氏だって、友達がめちゃくちゃ落ち込んでたから」
「ほんとに違う」わたしは真剣に否定した。このモテを逃すわけにはいかない、絶対に。「そういう目で見てない、お互い。棒切れみたいなもん」
「よかった」彼は安心したように言った。「いま彼氏いないならさ、会ってみる気ない? いいやつだよ。オレが保証する」
わたしはひと呼吸置いた。がつがつした女だと思われたくなかった。
「いいよ」とわたしは言った。「会う。会いたい」
「よかった。あいつもバンドやってるし、話が合うと思う」
またあとで掛け直すと言って電話は切れた。

* * *

二日前、我が北高で文化祭が開催された。
文化祭といっても、さびれた港町の田舎高校でやれる催しはたかが知れている (マンガみたいな文化祭って、現実に存在するんだろうか?)
吹奏楽の演奏とか、文化部の展示ていどだ。だから文化祭においての圧倒的な花形はライブだった。
武道場で催されるライブは本格的だ。地元のライブハウスから機材やらスピーカーが持ち込まれ、PAスタッフがライブハウスばりの爆音を鳴らしてくれる。本格的な照明も設置され、曲に合わせてアレンジまでしてくれる。ど田舎の高校生バンドには破格の待遇だった。

田舎の高校生は非日常に飢えている。ライブは会場に入りきらないほどの生徒が押し寄せた。いちど出たら二度と中に入れないから、誰も出ていかない。ライブくらいしか観るものがないから、どんどん人が来る。中は揉みくちゃである。

狭い会場の熱気はすさまじく、バンドもオーディエンス側もフルマックスの興奮状態だった。どんなジャンルのバンドだろうが何だろうがめちゃくちゃに盛り上がった。ライブというより、10代のありあまったエネルギーの大爆発大会だ。

自分たちの音が大音量で鳴らされるだけでも壮絶に気持ちいいのに、オーディエンスがむちゃくちゃになる快感をいちど覚えたら、他の何とも替えがきかなくなる。ライブを観るのとやるのとでは、手に入れられる感動の種類がまったく違うと初めて知った。

ライブをやったら、校内で顔が知られるようになった。
同級生の見る目が明らかに変わった。校内のあちこちで声がかかった。一年のぶんざいで三年生の先輩からも可愛がってもらえるようになった。文化祭を機に、高校生活の楽しさが一気にバージョンアップした。

そのうえわたしをカッコいいと言ってくれる男の子まで出現した。
文化祭でライブやるとモテるって聞いたけど、マジだった。マンガの話じゃなかった。最大最上級の褒め言葉だ。
うれしい。死ぬほどうれしい。どうしよう。しかも相手はバンドマンだって。マジかよ! どうしよう!

* * *

10分後、再び電話がかかってきた。
「明日会えるかって。おまえバイト、何時まで?」
明日。胸が急にドキドキしてきた。
「6時。その後でなら」
「バイト先って図書館近くのCD屋だよね? そこに6時でいい?」
「うん」とわたしは言った。「いいよ、それで。ちょっと過ぎるかもしれないけど」
「あのさ」、彼の声が急に神妙なものになった。「オレの一番の親友なんだよ。ほんとにいいやつだし、顔もわるくないと思う。無理には言えないけど……できればまじめに考えてやって。頼む」
男の友情に何か胸が熱くなる。わたしもこんなことを言ってくれる友達がほしい。
田野上。おまえいいやつだな、と思ったけど言わなかった。
「わかってる」と答えて、電話を切った。

* * *

翌日のバイト中、わたしはいつになくそわそわしていた。
店の前を通るブレザー男子を見かけると、いちいちドキッとした。
10秒おきに時計に目をやり、うわの空で接客する。レジの中で身をかがめて鏡をのぞき込み、意味もなく髪でニキビを隠し、意味もなくリップを塗り直す。100回目のため息をつく。

実際会ってみたらぶさいくだな、とか思われたらどうしよう。
わたしは急に不安になる。ライブの照明で、それなりに見えただけかもしれない。外で見たらがっかりするかもしれない。期待はずれと思われるかもしれない。

そうだ、わたしはカッコいいどころか、かわいくも何ともない、ただのニキビだ。学年一かわいい妹とは、顔のつくりが根こそぎ違う (実は姉妹です、はもはや鉄板ネタだった)。
それに、相手だってわたしみたいなのをカッコいいなんて言う男子だ。ものすごく変なのが来るかもしれない。そうだ、そうに決まってる。期待しないほうがいい。

そんなのを頭のなかでぐるぐる繰り返すうちに6時になる。わたしは制服に着替えもせず、バイトのエプロン姿のまま外に出る。制服に着替えている間に帰っちゃうかもしれないと心配だった。
表通りにはそれらしい人影がなかった。店の中をのぞいた彼が、わたしの姿を見て帰ったかもしれない。最悪だ。もしそうなら二度と立ち直れない。
表通りをすぐ右手に折れて、一本裏通りに入る。
一台分の駐車スペースに、紺色のブレザーを着た男の子がひとり立っていた。

彼の姿を見た瞬間、心臓がびりびり震えた。
想像していたより、一億倍カッコいい。
超弩級の、もろにタイプな男の子だ。あまりのときめきに息がとまりそうになった。

挙動不審なわたしに気づいた彼が、頭だけで小さくお辞儀をした。
そうか、とわたしは思う。相手はわたしの顔を知っている。やっぱり彼で間違いないのだ。
彼は咳払いをして、ゆっくりこちらに近づいてくる。
ちょっと待ってよ。カッコいい、カッコいい、カッコいい。心臓の音が尋常じゃない。ライブの比じゃない。

何がなんだか分からなくて、わたしは顔を下に向けた。
彼が目の前に立つ。ローファーのつま先が見える。
自分がどんな顔をしているのかも分からなかった。気味わるくにやにやしているかもしれない。顔を上げられない。彼に顔を見られるのがいやだった。期待はずれだ、ニキビだって思われるのが怖かった。

「あの……」
低いハスキーな声が、そばで聞こえた。
小さく息を吐き、顔を上げる。少し背の高い彼と目が合う。
ちょっと長めの黒い髪。長い前髪の奥にある、優しげな黒い目。くっきりとした鼻、薄くて赤い唇。よけいな贅肉のついていなそうな、バンドマンらしい体格。
だめだ、すごく好き。マジでカッコいい。
わたしは彼に一目惚れした。恋愛にさして興味のなかったわたしが、一瞬で恋に落ちたのだった。

「ごめんなさい、いきなり呼び出して……いやじゃなかった?」
彼は首の後ろをかきながら言った。
わたしは首を振った。いやなわけない。いやであるわけがない。こんなのだったら何万回でも呼び出されたい。
「じゃあ、よかった」彼は視線を外して、またわたしを見た。「僕はトリタニです。M高の……知ってるよね、ごめん」
彼は恥ずかしそうに笑った。わたしも少し笑った。

「文化祭、すごくカッコよかったです。一緒に見に行った、田野上。あいつに辻本さんの話をしたら、クラスメイトだったって聞いて。それで電話をかけてもらいました」
ときどき視線を外しながら彼は話した。
「今度、僕もライブやるんで。もしよかったら、観にきてもらえませんか」
彼は首まで真っ赤だった。照れた男の子を間近に見るのは初めてだった。なんてかわいいんだろう。
わたしの地声は大きい。ふつうに話しているだけでうるさいとよく言われる。だからつとめて小さな声で話した。
ありがとう、観にいきます。
彼はうれしそうに笑った。笑顔がすごくキュートだ。つられてわたしも笑顔になる。
彼は落ち着きなくあたりを見わたして、小さく咳払いをした。

「文化祭で見た時は、カッコいい女の子だなって思ったけど」数秒の間があいた。「実際に会ってみて、すごく……かわいいって思いました。タイプっていうか……ごめん、そんなの言われても困るよね」

かわいいって言った、いま、絶対言った。わたしはおどろいて首を振った。
保育園時代以降、ただのいちども言われたことがない言葉だ。かわいい。がさつでぶさいくなわたしを、彼のような男の子がかわいいと言ってくれた。
うれしい。すごくうれしい。うれしくてはちきれそうだ。

「ほんとうは今日、友達になってくださいって言うつもりでした」
視線を外し、彼は軽く握った手を口もとに当てた。大きめのサイズでつくられた紺色のブレザーは、彼の手の甲の半分を隠していた。真っ赤になって話す彼のそんな姿は、抱きしめてあげたくなるほどかわいかった。
彼は手をおろした。「まだぜんぜん知り合ってもないのに、こんなこと言うなんておかしいけど……」
彼はわたしの目を見つめた。その目はどこまでも真剣で、何を言うつもりでいるのかを先に語っていた。
「よかったら、僕と付き合ってください」

彼はわたしをまっすぐに見つめていた。
彼の言葉が、身体のなかで銅鑼のように鳴り響く。
男の子に真剣に見つめられてはじめて、自分が男でなく女であると強く意識した。
わたしは頷いた。

彼は身をかがめて膝に手をつき、「やっべぇ……」と小さくつぶやいた。
十数分前に会ったばかりの、知らない男の子。
わたしは両手を組み合わせる。
はじめて会ったわたしたちが付き合う。今まで誰にも見向きもされなかったわたしが、男の子と付き合う。幽霊が見える、と同じレベルの嘘に思えた。
体勢を直して、彼は照れ笑いを浮かべた。わたしは固く握りしめていた両手をほどいた。

「明日の同じ時間、ここに来てもいい?」
彼を見上げたまま、わたしはうん、と答えた。意味がよくわからなかった。明日の同じ時間、ここに来てどうするんだろう。
彼は良かった、とつぶやいてはにかんだ。
彼の表情を見てようやく、お迎えの申し出だと認識した。男の子と付き合うとは、彼氏となった男の子がお迎えに来てくれることをいうのだ。
居心地のわるい沈黙のあと、彼は急にもじもじと後ずさった。
「じゃあ、明日、また。バイバイ」
近くにとめてあった自転車にまたがり、彼はバイバイと手を振った。わたしも笑顔で手を振った。

胸いっぱいな気分で遠ざかる背中を見送っていると、彼は突然「やったーーーーーーー!!」と叫び声を上げた。わたしはびっくりして、思わず噴き出した。
彼はこちらを振り返り、大きく手を振った。わたしも手を大きく振りかえした。


このときわたしはまだ知らなかった。
生まれてはじめてできた彼氏が、ひどく病的な男の子だということを。

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