自分の言葉17〜「1」の調和と「0」の調和〜
“イエスは御自身の存在を強制せず、押し付ける方ではなく、全くその逆に近い形で、御自身の存在を秘かな、隠されたものとし、気づかれぬ形で信じる者にも信じない者にも寄り添う方であり、敢えて自ら進んで知られるということはないように共に重荷を担う方なのである。イエスは私たちを本当に愛しておられるので、決して押しつけがましいようなこと、意志を強制し、私たちの意志を無視し蔑ろにするようなことはせず、御自分に対するそのような救い主像は願っておられない。
しかしそれでも、イエスは私たち人間に話しかけられることも秘かに喜んでいらっしゃる。その喜びの中に期待があるとしても、決して私たち人間にとって押しつけがましい重い期待ではない。逆に有り難みを伴い、私たちが涙をもってイエスに話しかけたくさせるような、そんな温かく柔らかい、吸い寄せられるよう最適な距離感の自然体の期待なのだ。
そして、親の愛に子が気づいたときに感じる、言葉では言い表しようのない悔い改めの思い・感謝の思い・進むべき方向性が示される悟りが一人一人の人間に生じる。そのとき人は、幻想ではない真実の愛の存在に気づき、生まれ変わり、聖霊による生を生き始める。これが真の洗礼・形に囚われない洗礼であり、涙という水に浸かって浮かび上がった全く違う個別的な人間の細胞の進化である。”
イエスという言葉で象徴される神、真理、大いなる生命なる存在は、私たちの的外れな行動を否定するという形ではなく、受け入れるという形で扱うということですが、
キリスト者はどうしても怒る神も想像しがちです。厳しさと優しさの両方を兼ね備えた人間的な感情を持った人格神を神とすることによって、神という存在を分かりやすくしました。
しかし、悟りの果実を少しでも味わったことのある人なら、厳しさも優しさも1つで、その調和の「1」もしくは「0」を感じることこそが重要であることに気づいているでしょう。
「1」の時の調和は爆発的な喜びの表現として大いなる生命が内から溢れ出てきます。
「0」の時の調和は虚しさとは別質の偉大なる静寂が今この瞬間を支配します。
「幻想ではない真実の愛の存在に気づき、生まれ変わり、聖霊による生を生き始める」とは、頭の中でしゃべり続ける思考という幻想が取り払われ、もしくは距離が置かれ、今感じる世界・今見える世界・今五感で感じる世界に没入していくことです。
聖霊は私たちの内にいます大いなる生命のことです。よくキリスト者は「私を通して神が話す」「私はただの器に過ぎない」という表現の仕方をすることがありますが、それはおしゃべりを続ける思考が停止した時に大いなる生命という主体者が勝手にその人の口を使って話し始めるから、そのように感じるのです。
「これが真の洗礼・形に囚われない洗礼であり、涙という水に浸かって浮かび上がった全く違う個別的な人間の細胞の進化である。」
と書きましたが、涙を流す感情に浸るとき、心が純粋になるので、こういう書き方をしました。
感情はもしかしたら、最も分かりやすい気づきのサインかもしれません。私にとっては絶望や悲しみの方が喜びや楽しみよりも輪郭がはっきりしているので、わざと絶望的になったり悲しみに浸ることで、心を洗い、「0」の調和を取り戻したりします。
「0」のイエス様はまさに「御自身の存在を強制せず、押し付ける方ではなく、全くその逆に近い形で、御自身の存在を秘かな、隠されたものとし、気づかれぬ形で信じる者にも信じない者にも寄り添う方であり、敢えて自ら進んで知られるということはないように共に重荷を担う方」です。
「0」はすぐさま「1」になり、外に表現されます。そのとき私たちは治癒された「1」ですが、他者の目には「0」として映ります。その他者もまた、いずれ「0」に守られていたことを悟り、治癒された「1」になり、他者に対して「0」になります。
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