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今日はグッド・フライデー

イースター前の金曜日をグッドフライデーと欧米では呼んでいます。日本語では聖金曜日と呼ぶようです。

イエス・キリストが十字架にかけられたのは金曜日でした。十字架にかけられる前、鉄の鋲や鉤針のついた鞭で何十回も打たれ、それは骨や内臓まで見えるほどだったといいます。頭には太く硬い棘のついた茨の冠を被せられました。そして頭を何度も撃たれ、茨の棘はそのたびに頭に深く突き刺さったでしょう。
十字架刑は当時ヨーロッパを牛耳っていたローマ人の間で、異国人の罪人に対してのみ行われていた最も重く残忍な刑でした。あまりに残酷すぎる刑のため、同胞のローマ人を十字架刑で処することは法律で罰せられていたのです。

内蔵も骨も見えてしまうほどの鞭打と茨の棘で深く傷をおったぼろぼろの体で、自分が掛けられる十字架となる約100kgの木を、その刑場のあるゴルゴタの丘まで1.6km背負い歩いて運ばねばならないのです。周囲の人々はそのイエスの姿を面白おかしくやじをとばし、ちょっかいを出しながら見ていたとあります。

イエスの両手のひらと足の甲に釘を打たれた絵をよく見ますが、正確には、両手首の内側と両足首に釘を打たれました。釘の太さ6cm, 長さ15cmほどのほぼ鉄の棒です。なぜ手首なのか、なぜそんなに釘が太いのか。そうでないと、体重を支えきれないからです。手のひらでは手が裂けてしまうからです。壮絶さを想像できますか?

十字架刑にかかった人は、最期は窒息死で息を引き取ります。人は肺で息を吸うとき肩が少し持ち上がるそうです。十字架にかかった人は自分の体重で肩が脱臼し、体を持ち上げることができず息を吸えないのです。

2000年前、イエスが十字架上で息を引き取った時、亡くなったことを確認するためにローマ兵がイエスの脇腹を槍でついたら、血と水が吹き出した、と当時の弟子が新約聖書に記しています。この現象は現代医学では証明されていることで、「心外膜液」と「胸水」を意味します。これはどちらも血液量減少に伴うショック状態で、前者は心臓に、後者は肺に集まります。医学的には「出血多量によるショック状態」でこの後に心停止の予見を指すそうです。
イエスの死を確認したローマ兵たちは、イエスの遺品を分け合いました。

壮絶な息もできない状態にあるにもかかわらず、自分の息さえもうわずかであるにもかかわらず、イエスは十字架の上で私たちのために父なる神に「彼らをお赦しください」と祈ってくださったのです。そして息を引き取る直前の言葉は「完了した」でした。このままでは天国に行けない私たちのために自らの命をもって、私たちと父なる神との関係をとりもってくださいました。自分の命を捧げるためにこの世に来てくださったイエス。自らの命をもって使命を完了した、と仰ったのです。

罪人は罪人を助けられません。刑務所に入っている受刑者を助けるために、別の受刑者が「彼は無実です。私がそれを証明します」と言ったところで誰が信じるでしょう。
例えば地位も名誉も尊敬も勝ち取っている立派な人が「彼は無実です。私が証明します」と言えば、もしかしたら何人かは「あの方が仰るなら信じよう」と思うかもしれません。

神は、この地上にイエスを送ってくださいました。神などいないと神の存在を無視して、自分が神であるかのように傲慢に生きる私たちに、神の存在、神の愛を知ってもらおうと、イエスを私たちの目に見えるかたちで地上に送ってくださったのです。イエスは多くの神の言葉と神の愛を説かれました。神と共に生きるとはどういうことかを身を持って見せてくれたのがイエスです。地上に存在する人間で唯一、ひとつも罪を犯したことのないイエス。神はご自分の一人子イエスの存在を私たちに与えてくださり、その清い命をもって私たちのすべての罪を贖ってくださったのです。

ヨハネの福音書 3章 16〜17節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

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イエスが生まれる800年前に書かれたイザヤ書の預言にはこうあります。

イザヤ書 53章 1〜12節
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」




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