#30 よしっ、こうなったらもち米からつくろう。
暗いと不平を言うよりも進んで灯りを付けなさい。
It is better to light a candle than to curse the darkness.
ケラー神父
無い物は、無い。のではない。
無いところには、無い。のだ。
先日、とある会社が倒れるかもしれない。という話を聞いた。その地方ではある程度のシェアを持っていて、専門の技術者も多くまず問題ないだろうと思っていたら、突然そんなことになっていたようである。
もし本当に解散したら、放出される技術者たちはどうするのだろうか。彼ら技術者たちは、プロのスキルを持っているが、機材や機械が無いとその手腕を振るう事は出来ない。または、その専門性を発揮するためにそういった物が必要である。
そういった意味で、ある程度の資本が無いと技術者たちが活躍するための「環境」を整える事も出来ない。
仮に、小さいながらも自分で設備を投資しながら事業を始めるしかないとすれば、そうこうしているうちに、他の会社にシェアを奪われてしまうだろう。しかもこの「専門の機械」とは、どれもこれも目玉が飛び出んばかりの金額だったりする。
だから結局何かをはじめようと思っても、ある程度の投資用の資金が無いとはじめられないし、仮にはじめられてもその後の運転資金も必要になる。
この解散するかもしれないという話をしてくれた人は、最後にため息交じりにこういっていた。
「お金さえあれば、彼らを丸ごと囲って新しい事業を始められるのに」
今、自分に金があればその会社を丸ごと買って、業界のシェアを握れたのに。という事だ。
だが、無い袖は振れないのだ。無い物は、無い。少なくともこの人の手にはそんな資本は無いことを僕は知っていた。
しかし、なぜ無いのか。長年、たくさんの時間を仕事に費やしてきたのに。
なぜ、莫大な資本が僕にも、そしてこの人の手元には無いのか。
そこで資本がある人と、無い人の差はなんだろう。と考えてみた。
生まれ?育ち?運?外的要因?内的要因?
いろいろとあるのだろうが、きっとそれは、大量のお金を作って来なかったから。そういう働き方をして来なかったからなんじゃないだろうか。という結論に落ち着いてきた。
今までにコツコツと働いていた事は、決して間違いでは無い。しかし、それが莫大な資本につながるような仕事の仕方をしてきたか。という視点で振り返ると、決してそうではなかった。と言わざるを得ない。そういう環境を作ろうとも、そういう環境に近づこうともしていなかったように思う。
つまり、足りないのだ。
とにかく「大きな資本を創ろう」という目的のために、では何が必要なのかという事を見定めもしないで、ただ「お金があればなぁ」と思うのは間違いなんだろう。という事だけは悲しいくらいわかってきた。
では、今後どうしたら良いのだろうか。例えば僕がチャンスを握れるような莫大な資本を手に入れる事が出来るようには、何をどうしたら良いのだろうか。まだ間に合う?それとも・・・。
そんな事をごちゃごちゃと考えていたら、このコマに目が留まった。
てんとう虫コミックスドラえもん第2巻収録「タタミの田んぼ」からの1コマ
大好きなもちを分け合って食べるのび太とドラえもん。しかし、2で割り切れる数ではなかったため、最後の1個をめぐって喧嘩になってしまうが、ママから「みっともない」と止められる。もちさえもっとあれば、こんな喧嘩にならなかったのに。と、ドラえもんは「もち製造マシン」という秘密道具を出す。しかし、そのマシンからは、もちは出てこない。原料となるもち米を入れていなかったからである。ママにもち米をねだるも、お米をおもちゃにしてはいけない。という理由で却下されてしまう。これはその後のドラえもんの決意の1コマである。
まず言いたいのは、このセリフについてである。
できれば是非、実際に口に出していただきたい。
「よしっ、こうなったらもち米からつくろう。」
あなたの人生で、このセリフを一度でも言ったことがあっただろうか。ほとんどの人が言ったことは無かったハズだ。声に出して言ってみると、わかる事がある。それは、この先もこのセリフはきっと言わない。という事だ。なぜだか、このセリフはレア感があり、どこかナンセンスなおかしみに溢れている。
さて今、彼らに必要なモノはもちである。そして、それを作るにはもち米が必要である。
だが、もち米を追加でもらえる程のプレゼンテーションを二人はママに対してしようとしなかった。ただ「おもちゃじゃないのに」と不満そうに言うだけであった。これは、与えられたもちでは足りず、もっと食べたいという卑しい気持ちがある為に、あまり強くは言えないという心理かもしれない。
さらにママは、お米をおもちゃにしてはいけない。という断り方をしている。もち米がもう無いからあげられないとは言っていない。つまり、これは野比家にはもち米があるという事でもある。あるところにはあるのだ。
そこで結局身を切ってでも、もち米から作る事を考えた訳である。無いならば作ろう。この発想について覚えておきたい。
そう、結局あるところになれば良いのだ。なる以外ないのだ。
しかしそれには、決意が必要だ。苦労をしても良い。という決意が必要なのだ。
この「タタミの田んぼ」という話は、ドラえもんの中でも屈指の名作だと思う。
田植えというかつては身近な行為だったものを子供であるのび太は知らない。という点についても、何か時の流れとか、時代を感じさせる要素がある。そしてなぜか、ドラえもんは手際よく田植えをする事が出来る。田植えもプログラミングされているのだ。子守りの範疇なのだろうか。
さらに日照りや、大雨、台風やいなご。そういった適当な苦労を乗り越える必要があったが、この日照りの時の2人の慌てぶりとバケツをめぐるママとのシーンは捧腹絶倒である。
そんなこんなでついに苦労のかいあって大豊作となった時、「かり入れって、楽しいねえ」とニコニコ顔の2人は幸せそうである。苦労を知るものにしか、得られる事の出来ないモノがあるのだろう言える。
いざ、もちをつくる2人。しかしまたもや2で割り切れない数となってしまった。もち130個と129個で再び喧嘩になってしまうところで、この話は終わる。初期によく見る最初に戻るオチである。素晴らしい。
でもこれ、最初に余った1個を足せばよいのではないだろうか。
という風に、ギャグ漫画としての完成度が高いのもさることながら、必要以上に増えてしまった成果物をめぐって争いが起こっているという点にも注目したい。
冒頭から、莫大な資本を得られていない事に対しての不満や、その為に努力してこなかったことについてわが身を嘆いていた。しかし、そんなやつはそもそも、いざ本当に莫大な資本を得たところで、結局は同じ問題で苦しむのかもしれない。
あればあるだけ、欲しいし。無いなら無いで、欲しい。
それに、お金があればなあ。と思うだけで何もしない人には、お金は集まらない。もしお金を得たとしても、まだ足りない、まだ足りないと思ってしまうかも知れない。だから今の僕のように、足りないくらいがいいのかもしれない。身の丈に合う身分なのだろう。
もちを129個も食べられないのは明らかなのだ。
いずれにしても、ママに言わせれば「そんなことでけんかなんて、みっともないわよ。」だ。
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