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善悪について意味上の主語を求めよ

こんにちは、Litsuです。

出来るだけ落ち着いて文章を書きたいと思っているんですが、感情を乗せると文章もつられて主張が飛躍してしまったりします。それはそれで心に響いてもらえるのかもしれませんが、その一方織り交ぜた理論も自分なりにしっかり考えたものではあるので、伝わる整然さが多少なりとも失われるのはもどかしいですね。

今回はそんな、「それはそれで、でもこうとも」のお話です。
わかりやすくいってしまうと良悪や正しい、間違いなど、いわゆる価値判断についての話です。

日々生きているといたるところで、それは正しい、それは間違いだ、お前は良い人だ、お前は悪人だ、なんて言葉を耳にします。

主語大きすぎません?

誰にとって正しいのか、誰にとって悪いのか、何にとって正しいのか、何をするには間違いなのか。
意味上の主語はなんですか?

意味上の主語を省略すると、その言葉たちは”普遍的”、”絶対的”というニュアンスを帯びてしまいます。

そのニュアンスを帯びた言葉を多用することは誤解を生み、時に自己暗示的にも作用してしまう。

なんでこんなことに言及しているかといえば、善悪や正誤など大抵の価値判断は主観的なものだと思っているからです。

そして、本質的にこの世はグラデーションであり、明確な境界線は本来存在していない。あるのは人間が世界を理解し取り扱うために引いた言葉による線だと思っています。

熱い寒い、嬉しい悲しい、美味しい不味い、美しい醜い、全部比較から生じる主観的な感覚です。例えば、自分の体温に比べ熱い寒い、普段の感情レベルと比べて嬉しい悲しい、これまで食べてきたものと比べて美味しい不味い、これまで見てきたものに比べて美しい醜い。

自分の感覚を無意識に物に重ねて定規で物の長さを測るようにその物の価値的な位置を決めている。サバイバルをする羽目になった人が塩すらもついていない野生の動植物を食べ歓喜する。遭難したてでは同じものを食べても嫌悪感すら抱く、それは人間社会の感覚を引きずっているから。

このように環境などの要因で物の見方見え方は大きく変わります。なので、意味上の主語や条件などが設けられていない主張は、本心でそう思っているなら視野が狭いな(←主観的ですね)と感じてしまうし、そうでないなら言葉足らずだと思えてなりません(自戒も込めて)。

実生活において少なからず共通認識を省略してしまうのは必然ですが、それに慣れて何を共通認識としているのかを改めて意識できなくなるのは思考の柔軟性を失うということにもつながると思います。

最初に言いたかったことから脱線してしまいました。前提を書こうと思っただけなんですが、熱が入ってしまいました。

要は前提として何が言いたかったのかといえば、事象のあり方はグラデーションにすぎないということ、そのグラデーションに言葉や感覚で線を引いて人は世界を見ているに過ぎないのだろうということです。

基本的に人は主観的な生き物ですし、そう生きればいいと思っています。しかし、最低限相手に主張をする場合には摩擦や誤解を生むだろうからその前提をわきまえないのは良くないと思います。

例えば今、摩擦や誤解を生むのがよくないという価値判断をしましたが、この価値判断は自分が所詮は一人の人間で生存という生理的欲求と社会に依存しているというところからきており、その面は多くの人に共通するだろうという憶測と甘え、文の簡潔さ、入れ子的説明のため、信念のでしゃばりなどが原因かなと思います。noteは独り言の延長だからという言い訳をここに置いておきますね。

もう少し実践的な段階に話を移すと、性質と主観的な評価は分けて考えれば”普遍的”、”絶対的”善悪や正誤なんてそうめったに言えないだろうにと思います。傷つけられて受けた精神的ショックから自分を守るために自分を正当化し相手に悪の烙印を押してしまう人は多いように思います。でも、それは自分の精神の平穏を乱されたことに対しての主観的な悪だと思います。このことを自覚していない時点で、自分も少なからず感情的になっているのであり、その際自分は冷静だと思ってしまっているなら、それは偏見や思想の偏りへの第一歩であり危険信号だと私は思います。

主観は主観であると客観視して、感情的になったら、薄皮一枚の理性を以て感情的な自分をそのまま受け入れる。下手に理屈を捏ねてはいけない。それは感情が落ち着いた後に残ったものでするものです。

相手に暴言を吐くから悪い?良い悪いじゃない、そこにあるのはお互いの心理的なプロセスと表面に現れた行動だけです。良い悪いは事実ではなく、あくまで自分の心との比較から生まれた価値判断だ。

私は、そう信じているし、信じたい。人を必要以上に憎みたくないし、悪いと思えてしまうことで、相手の良いと思えることをなるべく見逃したくない。だから、自分の中でこう考えることを肯定しています。

主観的な目的で客観的なものを語るのは所詮私も一人の人間だからです。自分の持つ主観的な感覚、信念の普遍性を示したい、けれどそこに妥協はしたくないという思いがそうさせています。

沢山書きましたね
客観世界に生きる主観的な自分と認識すれば、この考えは自分をあまり蝕みません。どこまで行っても主観的な自分であることは変わらないので、そんな自分を可愛がってあげましょう。客観的に物を判断したい自分に寄り添う自分を客観視からの無限ループですが、最終的な判断は感情や直感が示した方向性を尊重するようにしています。

全然まとまってないだろうなと思いながらも。
どうにか伝わっていたら嬉しいです。

それでは良いと思える一日を


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