見出し画像

『リチウム』 第一章「格率」

 「二五〇二年、遂に私たちは真の自由と平等を手に入れたのです!」

 全日本精神医学連合会長兼国民議会議長の津良満による演説が始まった。総合精神医学院大講堂には全国から2万人を超える国民が詰めかけ、映像は全世界に配信されている。精神科医の青田誠一も師である津良の演説を最前列で聞いていた。老齢で肉付きの良い津良が今もなお声を張り上げているのを青田は少し訝しそうに見ていた。

 「今から七〇〇年前の18世紀以来、人類は人々の自由と平等を目指して歴史を紡いできました。それはある国は民主主義により、あるいは共産主義により、またある時代においては人種や性別の格差をなくそうとすることによってです。しかしいずれも失敗に終わりました。民主主義は衆愚政治や全体主義に堕落し、共産主義は労働者の怠惰と生産性の低下により破綻し、少数者へ寄り添った政治は国力の低下を招き、現に欧州は昨年ユーラシア帝国により完全に制服されてしまいました!」

「全ては人間が不完全であったせいです!」
「人間が半分が動物の肉欲に塗れた存在であったからです!」
「醜い性交渉によってしか増えることのできない存在であったあらです!」
「欲に塗れた人間がお互いを傷つけ合うことによってしか満足できなかったからです!」

 「しかし、今から二〇〇年前の二三〇〇年代より、『アディオデュラ』の脳神経移植手術により、限りなく理性的な人間の脳神経細胞を培養し、簡単に、そして安全に移植ができるようになりました。みなさんも、乳児期の頃に既にアディオデュラ手術を受けたと思います。この手術により、人類は初めて、法律や、教育や、道徳や、ましては宗教などによるソフトウェア面による変革から、『人間そのもの』というハードウェア的な面から変わることができたのです!」

 「そして、生物学者たちの手によって人口出産技術が誕生し、人類は性交・妊娠・出産の呪縛から解放されました。この精神医学・生物学の進歩により、遂に人類は動物であることを脱し、真に理性的な存在者として地球上に誕生したのです!人類の歴史を変えたのは政治家でもなく、思想家でもなく、ましてや宗教家でもなく、科学者と精神科医だったのです!」

 「『半動物』の旧人類の特性とは何だったのでしょうか? それは嘘・欺瞞・おべっか・おせっかい・作り笑い・虚栄心・憎悪・嫉妬・絆・共感・家族などの言葉に象徴されるでしょう。今ではほとんど使われない言葉ですから興味のある人は調べてみてください。『嘘』という言葉は真実とは異なることを意図的に述べたり態度に表すことで、『欺瞞』というのは『嘘』により意図的に他人を騙すことを示す言葉です。かつての人類は『自由』と『平等』を標榜しておきながら、他人の自由を身勝手に侵害する『犯罪者』と呼ばれる人々が数多く存在しました。」

 「また権利の平等を掲げながら子供たちの教育には『親』の性質や私有財産に依存しており、子供の健康や教育よりも自身の快楽を優先させ、子供に暴力を振るう『親』すらいたと言います。人は生まれながらにして、無残にも『親子関係』や『家族関係』の不合理な権力の下に必然的に投げ込まれていたのです!」

 「権力と嘘というものは密接な関係にありました。子供たちは兄弟な権力を持つ『親』や『教師』の権力の下に置かれ、真実を語ろうとする志向性よりも先に、欲を満たすための我儘を通すことと自己保身のための嘘をつく志向性を学びます。そして、経済活動を開始し自分で財を稼ぐようになるともっと酷くなります。醜いほどの富への欲求からまるで『私は貴方様を深く尊敬し、貴方様と私は同じ志を持った人間なのだ』というように顧客や上役に嘘をつき、作り笑いを浮かべるのです。そして、嘘をつくことにより他者との軽薄な絆を形成し、そんな関係に置かれている自分は幸せだという自己欺瞞に陥るのです!」

 「嘘と自己欺瞞による相互依存!これが旧人類を支配していた行動原理です!」

 「『表現の自由』も、『言論の自由』もその世界ではまやかしにしか過ぎませんでした。肉欲と自己保身に塗れた人間が行使する『言論の自由』とは、匿名で他者を誹謗し人格を否定するのに用いるか、堕落した消費生活を自慢することにしか用いるためのものでしか無かったのです!コンピューター技術もインターネット技術もAI技術もそのような愚かな大衆と人類には真に使いこなせない代物でした!特にAI技術は人類の善き伴侶であることを超え、戦争と人類の破壊の為に用いられるようになったのです!殊に三〇〇年前『ユーラシア帝国』になる前の『ロシア共和国』では、AI兵器と増殖型AIだけを従えた一介の中佐であったイワン=パヴァローヴィチが軍事クーデターを起こしました。一国を掌握したパヴァロ―ヴィチはAI技術を駆使した検閲と弾圧を駆使し、閣僚も官僚も無く、AIを携えた専制君主として君臨したのです!」
こう叫ぶと、今度は子供に言い聞かせるような語り口になり始めた。

 「パヴァローヴィチにより『私が神として世界を支配できるようにせよ』という至上命題を受けたAIたちがまず始めたのは温室効果ガスの意図的な大量排出でした。温暖化によりこれによりかつては凍り付いていた北極海やバルト海をロシアはいつでも利用できるようになり、資源の乏しかったロシア、特にシベリアにて産業が急速に活発化しました。」

 「ここからは皆さんのご存じの通りです。ロシア帝国は中央アジアを征服し、温暖化による急速な海面上昇により大ダメージを追っていた中国、中東、朝鮮半島、マレー半島までの東南アジア、そして欧州は二〇〇年前にイタリアが制服されたことを以てパヴァローヴィチはローマ教皇から皇帝の位を授けられ、『ユーラシア帝国』に国号を変更しました。この時既に人間としてのパヴァローヴィチは死んでおり、概念上の存在になっていましたがね。」

「さて、昨年遂にユーラシア帝国は長年侵攻を続けていたイギリスの降伏を以ては完全に欧州を征服してしまいました!欧州が完全に征服された今、奴らが次に目をつけるのは確実に日本です!ユーラシア帝国はAI支配による知略に富んだ国家でありますが、その根底には三〇〇年前の旧人類、パヴァローヴィチの醜い支配欲から来るものです!」

 「私たちは自由と理性を重んじる西側陣営の砦として徹底的に抵抗しなければならない!力による支配を拒絶し、理性と対話による調和した世界を守らねばならない!何にも縛られず真実を語り合える世界を守らねばならない!!」

 会場は大きな拍手に包み込まれ、津良会長は白衣を翻し、会場の人々に手を振りながら壇上を下っていった。脂汗の滲んだ禿げた頭から鱗のような皺が刻み込まれた目元まで汗が垂れるのを最前列で拍手をしていた青田からは見ていた。

 国民総大会はかつての国会に相当する議会であった。毎週一回の日曜日に全国民がオンライン・オフラインの両方で集い、首相の町田善雄の政策と、リム・ユーラシア諸国同盟(REA)総裁の政策の是非を議論し合うのであった。

 このような政治体制が取られるようになった要因は2つある。一つは二三〇〇年代から導入された「アディオデュラ」手術の普及とそれに伴う「幼児洗礼」の普及である。もう一つは同時期に発明された脳内組み込み型コンピューター、SLCの普及により休息時や睡眠時に最新情報や幾千もの専門知識を脳内にインプットできるようになったからであった。この2つによって殆どの国民が「理性的な知識人」となった。官僚組織は必要最低限まで減らされ、議会制度と大半の官僚組織の代わりに政治はエリート化した国民の元に降ろされたのであった。

 国民の余暇といえば専らコーヒーショップに集って議論したり、この国民総大会にて政治的議論を交わし、知的好奇心を満たすことに充てられた。肉体的欲求を満たすための酒場やライブスタジオは人々がしだいに理性的になるにつれて非合法化し、街は整然さと沈黙さを保つようになった。

 それゆえ、国民の人生というものは極めて目的論的な様相を持つようになった。なぜなら、旧来の資本主義社会を根底から支えていた消費欲求が「去勢」されたことにより、国民の労働は全て国家に必要なものに限られたものになり、休日や余暇は専ら国家政治や国際政治を考える時間に充てられるようになったからである。国民の労働も余暇活動も全ては世界のため。自らの一挙手一投足が「世界市民」としての意味付けが行われ、人々の人生全てが胸を張って生きるに値するものになったように見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?