大川家具ってなんで有名なの?
こんにちは!
インテリアの情報を定期的に発信しているフマーユーンです!
よく大川家具って聞くことありませんか?
大川は、福岡県の大川市のことで、このエリアは日本有数の家具産地として長年知られています。
関家具、ナガノインテリア、レグナテックなど、さまざまな有名な家具ブランドがいくつも大川市に拠点に構えております。
さて、今日の記事は、なんで大川は家具で有名になったの?って疑問を読むだけで明日他の人にも説明できるくらいに情報集めてまいりましたので是非見てみてください!!
最後にはもっとマニアックな領域の部分もまとめたので、そっちも気になったらぜひみてみてくださいね。
理由①:偉い人が家具作れって言った
超一言で言うと、榎津久米之介(えのきづくめのすけ)|1485~1582|というえらい人が家具作って〜って言ったのが始まりです。
久米之介は室町幕府の将軍であった足利義春の家臣である榎津遠江守の弟です。兄が戦死した後、久米之介は出家します。そしてはじめはお寺を建てるために木工業を興したとされています。
その後、寺のみならず、家具も作るようになり、大川木工の始祖と呼ばれるようになったそうな。
理由②:大工さんがもっと集まった
そんな大川に船がより盛んに行き来するようになりました。
17~18世紀ごろの話。まずは地理の勉強になっちゃいますが、舞台の九州の形状から見てみますと、大川市も面している、九州の海の水がカクってなっているところ(語彙力の限界)を、有明海と呼びます。
そして、大川市につながっている川を、筑後川と呼びます。
筑後川の特徴として、水深が浅いことが挙げられます。そして有明海からやってきた大型の船は、どっかのタイミングで小さい船に乗り換えをしないといけないのです。
その乗り換え地点が今の大川を含む、榎津(えのきづ)という地域でした。
(あれ、さっき出てきた人の名前。。。)
乗り換えの際に、船大工が修理したり、小さい船を作ったり・・・
榎津には、今までも盛んだった船大工たちが、海運業が拡大するにつれ、もっと盛り上がり始めました。
さらに上流の稲作を盛んにするために、水車などもこの地域で作っていました。このようにして、大川近辺は、木を加工する技術が日本全国の中でも随一に集積した地域となりました。
これが2つ目の理由です。
理由③:国から重要な地域と認められた
多くの地域で交易が盛んとなり、さまざま技術が向上したのは大川地域に限りません。大川はその地理的特性を活かし、1933年に筑後大川駅が開通するなど徐々に影響力が拡大していきました。
しかし時代は太平洋戦争に突入。家具の生産の自由は奪われ、若い職人も戦地へ、日本には家具も知識も多く失われてしまう時代を迎えました。
戦争時代はもちろん肯定すべきものではないですが、戦争のために開発したものが、現在の生活を支えている技術になっているものは多くあります。
実は、インテリア業界にも戦争の時の技術が応用されているものがあります。これはまた別の記事で解説したいと思います!!お楽しみ〜
そして、戦後1949年に、国から大川は重要木工集団地として選定されました。国のバックアップも受けて、大川家具は再び盛り上がり始めました!
ちなみに他に指定されていた地域としては、北海道の旭川/栃木の鹿沼などがあります。
まとめ
そして、今も大川家具は、その技術力と流通力を以ってして、日本のみならず世界を舞台にして日々新しい技術を磨き上げ、新しい家具を私たちに提供してくれています!
大川地域は、一般向けも法人向けも家具のフェアなどもあったりするので、ぜひ機会があれば来てみてくださいね!
さらに詳しく:諸富地域とのつながり
ここからはもっとマニアックな領域になりますが、気になる方はぜひみてみてください笑
さて、今の大川市を拡大してみましょう。
すると、中洲を挟んで、諸富町という場所まで橋がかかっていると思います。
この橋は、大川橋と呼ばれ1955年に設立され、今でも現役の橋となっております。
諸富町は、佐賀県の佐賀市に位置していますが、大川市が家具で盛んになるのと並行して、諸富町も並んで家具の産地にはなっていましたが、目立つのは大川の方でした。
そんな諸富町にも家具の技術と産業が流れ始めるのは、この大川橋が開通してから本格化したと言われています。(厳密にいうと、この橋が無料化になった1966年からと言われる)
諸富家具振興協同組合のHPを見ると、この橋がいかに重要な拠点になっているか一目瞭然かと思います!
この諸富家具にも、ARIAKEで有名な有限会社平田椅子製作所などもありますので、また今度は諸富地域側からも深ぼってみたいと思います!
ではでは!
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