『かもめ』チェーホフ かもめが意味するものとは
シェイクスピアに次ぐ、言わずと知れた戯曲作家チェーホフ。シェイクスピアの戯曲は起承転結が明瞭でドラマチックなストーリーな一方、チェーホフの戯曲は起承転結が存在するわけではなく、ごく日常の一部を切り取ったような作品が多く、これが世界演劇史に革命を起こしたと言われる所以である。今回取り上げるチェーホフの戯曲『かもめ』も終盤直前まで何が起こるわけではなく、何かが起こる気配すらない。唐突にも思われる結末に、また「悲劇」と思われるこの結末に、私たちは「喜劇」として作られたこの作品を振り返り、タイトル『かもめ』が揶揄するものを探そうとするだろう。その際の思考の足しに、この文章がなればいいと思う。
作家「チェーホフ」とは
1860生まれ(-1904)。南ロシアの港町タガンローグに生れる。16歳の時に家が破産し、モスクワ大学医学部に入ると同時に家計を支えるため、雑誌・新聞に短編や雑文を執筆。七年間で四百編以上の作品を発表して文名も高まったが、安易な名声に満足できず、本格的な文学を志向するようになる。人間観察に優れた短編の他、晩年には劇作に主力を注ぎ、演劇史に残る戯曲も多い。代表作に『桜の園』『三人姉妹』『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『かわいい女』『犬を連れた奥さん』などがある。
「かもめ」のあらすじ
劇作家を目指すトレープレフは、女優の母親に呆れられながらも脚本を作り続ける。そんな中ニーナと恋仲になるも、ニーナは有名作家であるトリゴーリンに心を奪われ、トレープレフは裏切られてしまう。彼はニーナに自分が殺したかもめを見せつけ、「いずれ僕はこんなふうに自分を撃ち殺す」と伝える。トリゴーリンは、「湖のほとりにあなたみたいな若い娘がかもめのように自由で幸せに暮らしている。ところがふとやってきた男が退屈まぎれにその娘を破滅させてしまう。このかもめのように」と呟く。
主人公トレープレフとかもめ
まずこの作品の中で、かもめを比喩に用いるシーンを幾つか挙げてみる。ほとんどが主人公トレープレフとその想い人ニーナに喩えられている。
ただ、トレープレフが喩えるかもめとニーナが喩えるかもめは少し認識が違っているようだ。
トレープレフの喩えるかもめは、
- 自身で撃ち殺し憐れむ対象
- 愛する女性(ニーナ)に捧げられる対象
と読み取ることができ、
つまり「愛する何かに尽くし力を失う人間」、トレープレフ自身に喩えていると考えられる。トレープレフにとって愛する何かとは、ニーナであり、脚本でああり、彼はどちらも手にいれたとは言えないまま物語の結末を迎える。
ニーナとかもめ
ニーナの喩えるかもめは、
- 湖に魅了され幸せに暮らすも、何者かにより破滅させられてしまう
- 女優(自分という存在を押し殺し華美に見せる)
であり、
つまり「自分を偽って華美に生きるも、破滅してしまう人間」、ニーナ自身である。ニーナにとって女優という仕事やトリゴーリンの前で繕う様子は、かもめのように偽りであり儚い姿である。
まとめ
主人公トレープレフとニーナは、作中何度もかもめに自分自身を重ねる。しかし両者が思い描く自分自身とは、不完全で常に何かを失う恐怖に怯えている。
トレープレフとニーナに共通するかもめは、下記3つを象徴する。
- いつか破滅する儚い存在
- 表面上の美しさ
- 愛するものに尽くそうとする
チェーホフは、「かもめ」を常に何かを探し求めて生き絶える「人間」と同義として捉え、かもめと人間が共存しながら生活するこの世の儚さをこの作品で描いたのかもしれない。
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