晴れときどき豚カツ

 仕事から帰ると家の中にはなにもなかった。冗談でもなんでもなく、文字通り、本当になにもなかった。
 冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ベッド、細々とした家財道具、なにからなにまで。残っていたのは俺の服とノートパソコンだけ。猫もいない。
 昨日今日の思いつきじゃないだろうから、ずっと前から計画していたことだったのだろう。冗談でもなんでもなく、途方に暮れていた。

 あいつとは別に結婚しようとかいっしょに住もうとか、そういう話をしたことはなかった。自然発生的に始まった同居生活、用意したのは全部自分で、なにかだまされたような気になってしまう。たぶんそんなことはない。好きにしていていいかと聞かれ、どうぞと答える。自分は別になにをするわけでもない。時々連れ出して、時々ひとりで出かける。お土産は買う。その時々で食べたいものを作ったり作ってもらったりする。わがままとか、ケンカとか、よくある同居生活の風景だった。
 何ヶ月か前から、なんとなくそんな気はしていた。質問をしてもはぐらかされた。なにか言いたそうにしていたけれど、聞いても答えてはくれない。その結果がこれだ。
 たぶん、あいつの周りでは俺が全面的に悪いことになっているんだろう。連絡手段はことごとくブロックされていた。電話なんか通じるわけもなかった。ばかばかしくて探しだす気にもなれない。

 しばらくは平静を装いながらなんとかやりすごしていた。残業続きで疲れきっているのもあってか、余り深く考えずにすんでいたのだろう。
 ようやく取れた休み、目が覚めると昼はとうに過ぎていて、腹が減っているのに気がつきはしたが、なにを食べようとかそういうことも今はすぐに思いつかない。
 どうにかして体を起こし駅前まで出ると、昼食のピーク時間はすぎ夕食には早いタイミングだったようで、入口から見える席はどこも空いていた。
 この状況でよくメシを食おうと思うよな。自分でもどうかと思うのだけれど、腹は減るんだからしかたない。ただ、どのメニューもなんとなくそそられなくて、結局、通りの真ん中辺りにある、ふだんは人が多くて入りづらい豚カツ屋にした。というか、待つのが嫌いだと言われて、ここには一度も来たことがなかったような気がする。
「ひれかつセットで」
 待っている間、ケータイで電気製品が安く買えそうなところを探す。部屋の中はもうだいぶ荒れ放題になっていた。決して片づけが得意なわけではないけれど、いいかげん生活を立て直さないと人として終わるような気がする。
 ドラマならここから一悶着あるところだろう。その嵐をどうやって乗り切るんだ。全部奪っていったのは自分たちのくせに。

 ほどなくして目の前に置かれたキャベツの千切りの山を黙々と口の中に押し込む。咀嚼音が頭を支配し、面倒な先々のことを一緒に腹の奥に追いやる。親の敵《かたき》みたいにすり鉢の胡麻をこれでもかってくらいにすりつぶす。鼻が悪くて匂いがよくわからないけれど。
 やってきた豚カツの、まだ油から上がった直後でじりじりと音を立てているみたいな一切れをざくりという音を立てて食べる。熱い。胡椒がよくきいていて美味い。また一切れ、口に放り込む。
 ごはんをおかわりする。味噌汁は最後までとっておく。キャベツの山は二回目のおかわりだ。
 食べている最中に大学時代の友だちからメッセージが入った。同棲解消おめでとう! 祝賀会やってるよ!
 誰から聞いたのか、いくつも似たようなメッセージで画面が埋まる。っていうかどこからその情報仕入れてきたんだ。
 ふだん使ったことのないような、かわいい見た目のスタンプをつけて「お前ら全員ぶっ殺す」とだけ送り返した。
 せっかくいい気分で豚カツ食ってんのにくだらねえもん送ってくんなよ。
『どこにいるの』
 どこまで知っているのかわからないけれど、だいたいのことは知ってそうなメッセージ。からかう声をすり抜けて目に入ってきた。お前も聞いたのかよ。
 駅前の豚カツ屋。しばらくまともに食ってなかったから死にそう。
 食べている横目でやる気なく返事をする。家ん中なんもないんだって? おうよ。なんなら引っ越し直後のほうが荷物あるねえ。
 無言で食べるよりもずっと早く豚カツは全部腹の中に収まった。ごちそうさん。
 家電、買い直しだよ。金ばっかかかってしゃーない。なんとなくぼやくつもりでメッセージを送った。と。
『あげられるような不用品はないけど、弟がリサイクル屋でバイトしてるから紹介しようか』
 ナイスな提案だった。新品じゃないんだよなあと思ったけど、もうなんかこの際なんでもいいのか。いや、でも。
 頼んでもいいかな、と、送りかけてやめた。

 誰かが使っていた気配のあるものを持つのは嫌だな、と思ってしまった。普段ならきっと関係ない。そんなに金もないし、喜んで紹介してもらっただろう。なんならただでもらうのだって躊躇しないはずだ。
 あいつはそういうことは気にしないのだろうか。俺がつけた冷蔵庫の傷も、なんとなく接触の悪いトースターの電源コードもそのまま使うのかもしれない。気持ち悪い。今の自分にはそんなことはできないや。全部新しくしなければ。
 やっぱいいや。わざわざありがとう。
『そういうと思った。なんか必要なものがあったら連絡して』
 誰かの言葉が救いになるのなら、きっとこんなどうでもいいようなやり取りがそうなんだろう。
 伝票を掴んでレジへ。支払いの間、ケータイには見慣れた、でも消してしまって今は登録はしていない番号が表示されていた。店員さんの「電話大丈夫ですか」の言葉に、ええ、とだけ答える。他人ヅラしてかけてくんなよ。

 店を出て、家には戻らずにすぐそこの電器屋に足を向ける。そこに行けばなんかあるだろう。

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