文学的セルフの遊び場 No. 3 - 船頭多くして船山に登る

 今日は冬にしては暖かく、夜も過ごしやすい日であった。もう日が変わってだいぶと経つ。少し筆を持つが、早めに寝よう。

 サークルで主催を務めていたとき、周りにあまり人がおらず、自分が全ての中心にあったときがあった。それはそれは快適であったと言うとすこし意地の悪いように聞こえるが、少しの寂しさ──英語ならloneliness──と引き換えに、確かな心地よさを得ていたことを、鮮明に覚えている。

 自分の社会性が低いことはさておき、これはことわざで言うところの「船頭多くして船山に登る」とは真逆の心持ちなのだろうと考えたときに、ふとこの言葉の意味を考えたくなった。この言葉は、解釈として、「リーダーが多いために船が山に登ってしまう」ということから、「指図する者が多いと、あらぬ方向に事が運んでしまう」ということを示すと言うのが一般的だと思う。この解釈は正しい、正しいが少し鮮明でない、なんとなくそのような気がする。
 その原因は、「船頭」にあると、なんとなく思う。ある組織の中で、リーダーと指図する者というのでは、随分異なってくる。「船頭」は、果たしてリーダーなのだろうか、指図する者なのだろうか、どうなのだろう。

 個人的な経験として、この「船頭」とは、一つの役割であり、「さまざまな意見のある中それを取りまとめる役割を担う人」という意味だと、思う── δοκεῖ μοι。周りに全く指図するものがおらず、絶対的なリーダーのみが全てを決定するというのは、確かに組織の形態として正しいが、十分ではない、と思う。本当に組織として良い形を保てるのは、「指図する人」が多い状態である。組織内にそういう人が多い方が、絶対にさまざまな可能性の中から選択していける。「山に登る」選択肢が議論の中に出ることは、必ずしもよくないことではない。一人のリーダーが、「山に登る」選択をしてしまう方が──そしてそれを止められるリーダーシップのある者がいないことことの方が──余程悪い結果を招いていく。ただ「山に登る」選択肢と「海を進む」選択肢と、その他様々な選択肢がある中で、「海を進む」方を決定できる「役割」があれば、それで良いのだ。そう思う。

 「船頭」というのは、そういう意味で「指図する者」だけでは不十分で、それよりも「指図する者がいる中でのリーダー」であり、そういう「役割」ないし「役職」なのではないか。そういう者が複数人いる状態、つまるところ結果としてそういう者が一人もいないのと変わらない状態というのが、最悪の結果を招くと、そういうことを汲み取れるのではなかろうか。役割分担大切だよ。誰かしらに決定権を与えなよ。なんとなくではあるが、そのような示唆を汲み取れるような気がしている。

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