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才能が無いなら集団スポーツやんなくて良くない?

チームスポーツを諦めた

万年文化系みたいな面をしている僕だが、小学生時代は弱小少年サッカー、水泳、剣道、中学校時代の1年間は卓球と、一応あらゆるスポーツをかじった経験がある。
そしてその全て「壊滅的に才能が無い&周囲の人間関係が嫌」という理由で挫折している。

体育の時間になると、周囲の状況を読み取れず一人チームの方向性とズレた行動ばかり取る自分がいつも足を引っ張った。チーム分けの時は毎度、同じく運動できないクラスメイト数人と固まってサッカーやバスケットをプレイし、自分達の試合になると周囲から「とっとと終わらせよーぜ」とヤジが飛んだ。

もう早い段階から分かりきっている。美術センスが無い人や音痴な人が一定数いるのと同じように、自分は元からチームスポーツに向いている人間なんかでは無いのだ。

近頃、「チームスポーツの経験が無い男は何をやらせてもダメ」みたいな言説がバズっている。もちろん、綿密な集団行動や組織一丸となっての目標達成が求められる環境下において、チームスポーツを行った経験が有利に働くこともあるだろう。

じゃあ、チームスポーツをやらなかった人間は何も手にしてこなかったのだろうか?

大事なのは才能と出会うこと

あらゆる部活からドロップアウトした中学3年生の僕は、冬頃から中高合同の図書委員に入会する。そこでは半年に一回、会員による書評を冊子にまとめて全校生徒に配布している。

そこでどういう訳か、自分は人より物事を言葉でまとめたり、説明したりするのが得意なんだと気付くことになる。
とは言え最初に書いた記事なんて「継ぎはぎだらけ」+「賢く見られるためにやたら難解なワードをチョイスする」というお世辞にも他人に見せられない代物だったのだが、学年が上がり回数を重ねるにつれ、クオリティも徐々に上がっていった。

学校に某作家の方が講演に来た際には全校生徒を代表してインタビューをし、およそ3000字の文章にまとめるという大役を任されたこともある。一生の思い出である。

もちろん編集の過程で先輩と口論して、目の前で自分の書評をボロクソに非難されたり、文化祭でやる古本市では瞬発力や体力が求められるせいでマトモに動けなかったり、入ってきた後輩に対して正しい文章の書き方を指導しきれなかったり、何度か悔しい体験も味わった。

だがトータルで見た時、自分の鬱屈とした中高生時代を陰で支えていたのはこの図書委員の活動だったし、今の仕事でもこのnoteの執筆においても当時の経験が活きている。向いていないスポーツを嫌々続けるよりよっぽど充実していたと言える。

もちろん「チームスポーツも個人種目も文化系の部活も趣味も勉強も、何にも打ち込んだ経験がありません。家で自堕落な生活を送ってました。」はさすがにマズイと思う。だが大事なのは、本人が「これだ!」と思った何かに熱中して学びを得るというそのプロセス自体にあるのでは無いだろうか。

向いているフィールドを見つける

「チームスポーツの経験が無いと人間ダメになる論」を唱える人々は、たまたま集団行動に適応できる才能があって、経験を活かして社会で活躍できているからそんな事が言えるんだろう。言ってしまえば生存者バイアスである。

それならばこっちだって、自分がどんな人間で何ができなくて、反対にどの能力が人より秀でているかくらいは分かっている。わざわざ自分が不利に働くフィールドでは無く、勝てる分野と場所を探してサバイバルすれば良い。

大事なのはその中で、自分の持っている手札をいかに最大限活かして戦うかってことじゃないだろうか。これは別に僕だけに限った話じゃない。

おわりに

別にチームスポーツをやっている人をディスったり、それ自体の効果を否定する意図は全く無い。「わざわざこんな事口に出すのもダサくない?」とは思ったが、ここ最近のSNSでの論争を見る限り、あまりにも文化系が不憫だ。

最近身体が鈍ってきているので、丁度ランニングを再開しようと思っていたところ。社会人になってこそスポーツの習慣形成は大切だと思うが、集団スポーツやったかやってないかで人間の価値が決まるなんて余りにナンセンスでしょ。

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