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表現
なにかを"表現する"といった時に、
その方法はいろいろあるのだと思うけれど、
その人その人に、合った方法というのがあるのかなぁ、とおもいます。
ひろい意味においては、生きていることそのもの、生き方そのものがそれぞれの人にとっての表現。
また、一人の人のなかにも、いろんな"その人"がいて、
その時々によって、その人のなかのいろんな"じぶん"が顔をあらわす。
それも、豊かで、自由で、いいなぁとおもうのです。
じぶんって、こういう人、って決めつける必要はないし、こういうじぶんだけに統一していなきゃいけない、ということもないのだとおもう。
得意なこと、苦手なことも、人によってちがいますし…。
で、今日はなにをお話しさせていただきたいか、というと、
表現の"方法"について。
いろんな方法がある。
音楽、絵を描くこと、写真を撮ること、文章を書くこと、詩による表現、ダンスや舞踊などの身体表現。
スポーツをすることも、表現かもしれないし、経済活動をすることだって、その人の自己表現かもしれない。
また、たとえば音楽一つとってみても、そのなかにも表現方法はたくさんあるでしょう。
今、わたしはヨガの時間を人とともに過ごすということ(ヨガのレッスンを行う)ということができていないのですが、
今感じるのは、ヨガのレッスンを行うということは、"じぶん"というものを"表現"する時間でもあったのだなぁ、ということ。
ヨガのレッスンにかぎることではないとおもいますが、たった数十分のレッスン、またはたった数行の言葉のなかにも、
その人の生きてきた人生や人となり、というものが凝縮されて表現されている。
ヨガは、全身を使って、じぶんがじぶんに働きかけるものであり、じぶんを超えたなにかと繋がるものでもあり、それを人と共有する時間でもあるとおもうのですが、
表現の方法としては、とても豊かな可能性をもった形態でもあるとおもいます。
その時間をもつことができないのは、カッコつけずに正直にいえば、やはりさみしいという気持ちがあることも事実。
でも、それはやはり、じぶんの心と身体の状態がある程度整っていることが前提だとおもうのです。
スポーツなど身体を使う仕事をする人が、しばしば怪我をしたり、それと共にパフォーマンスをしていたりする、ということは多くの人にあることと思いますが…。
ただ、じぶんの場合は、人の感情や考えていることを感じ取り過ぎるところがあるので、
じぶんに入ってくる情報を、ある程度じぶんでコントロールする必要がある、ということは教えるという経験を積み重ねていくなかで、実感していったことです。
また、じぶんの発信する情報についても。
すべての方向にたいして、できるだけありのまま、正直でいたいとはおもうけれど、
物事を選択することもやはりとても大切。
じぶんの理想とする世界を表現しようとすると、実はじぶんに負荷がかかり過ぎているということが、往々にしてあるようでした。
いろんな表現の方法に、いろんな可能性があるのだとおもいますし、
人によって、どのような表現方法が合っているか、というのはことなるとおもいます。
文章を書いたり、じぶんの感じていることを述べたりということは、子どものころからすることが多かったし、人からも評価してもらうことが多かったけれど、
わたしの場合には、文字による表現くらい、抽象度の高い表現方法の方があっているのかもなぁ、ともおもいます。
(でも、その表現のなかでも、思考や言葉による表現の限界をこえたい、という気持ちがあります)
noteにほかの皆さまがどのような文章を投稿されているのか、失礼ながら今まであまりちゃんと読んだことがなかったのですが、
少しですが読ませていただいたら、すごく個性豊かな表現をされている方が多いことに驚きました。
それは、noteという表現の場の可能性とともに、
文章を書く方というのは基本的に、つねにじぶんの心の中や人やまわりをじっと見ている、そういう視線があるからではないか、と思いました。
そして、それを表現したいという欲求と、勇気がある。
そういう意味において、SNSにおける表現とは全然ちがうのかもしれないな、とおもいました。
文章長くなりましたが、
今日は"表現"についての一つの考察でした。
お読みいただき、ありがとうございました。
Beautiful Harmony Yoga
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