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生きる覚悟を決めさせてくれた

14時46分。

地面から突き上げるような大きな揺れが、身体全体を襲った。

建物全体が大きく揺れた。

揺れはしばらく収まらず、私たちはなにかの乗り物に乗っているかのようだった。

揺れの収まった少しの間を見計らって、

上司の指示のもと、

私たちはバックやコートを持って、非常階段で1階の駐車場へと降りた。

建物と非常階段は、引きはがされ、その空間を跨いで私たちは鉄の階段を降りた。

揺れの直後は、携帯の電波は通じたので、皆、家族や各々の心に浮かぶ人に、まずは連絡を取り、

互いの安否を知らせ合った。

雪の舞う、寒い日だった。

地下鉄が止まり、家に帰ることができなかったので、

その日は私は近くの小学校に、会社の人と共に避難した。

小学校までの道すがらのコンビニでは、そこの店長さんがおそらく自己判断であろう、

水やおにぎりなどの商品を、避難する人々に無償で配ってくれていた。

小学校の体育館。

避難した多くの人でごった返した。

揺れは収まらず、一晩中続いた。

毛布は足りないし、狭くて横にもなれず、

また知らない人だらけの空間では、なかなか眠ることはできなかった。

遠くの港では、炎が上がっていた。

翌朝、私は会社の人に乗っけてもらって、母の待つ自宅まで帰ることができた。

ガラスが割れ、誰もいなくなったコンビニは、荒らされていた。


震災の直後は、地震保険の仕事を短期でした。

水や食料を手に入れるため、2時間くらいは、行列に並んだ。

恐怖で皆自然と、行列に並んだ知らない人と情報交換をしたり、

それまでは話したこともなかったご近所の人と、仲良くなって助け合ったりした。

街には、自衛隊の装甲車が走り、県外ナンバーの車が公園に列を連ねた。

会社には、全国の支店から応援の人員が集められた。

ありがちな美談を、書くつもりはない

あの時から10年ほど経って、自分に入ってきた新しい情報もある。

当時やたら、絆だのということが叫ばれ、街にはテーマソングが流れた。

多くの人が経験した社会的な出来事を語ることは、

やはり、社会的なインパクトがあると思う。

でも、自分事として、本当にそれを経験した人は、

それを語る、ということは少なくとも圧倒的な外部に対しては、

ついぞしない、ということもあると思う。

私は、その震災で、直接の自分の家族を亡くしたわけではない。

私は、私のした経験についてしか、

語る口を持たない

当時、震災がらみで作られた映画を、たまたま観たことがあったけれど、

経験した人ならば、

あんな描き方、できるだろうか、

と思ったりもした。



震災が私にもたらしてくれたもの。

それは、「生きる覚悟を決めさせてくれた

ということだった。

震災の直前、私は遅い遅い就職活動をしながら、資格の勉強をしたりしていた。

あの地震を経験して、

私のなかで

なにかが変わった。

絶対に生きなければいけない

そう思った。

どんな手段を使ってもいい、

自分の力で

そうして、私は、私の一歩を踏み出すことを始めた。

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