壊す生み出す
院生の頃、援助政策について研究していました。
"援助"というものの中に、
人間の幸せについてのなにかしらの答えがあるのではないか。
そのように感じていたのではなかったか、と思います。
事例国として、私はネパールを選びました。
それは当時、日本のNGOが多く活動を行なっていた国の一つで、かつ女性の置かれている状況が最も厳しいといわれている国だったからです。
その指標は、国際機関のものだったので、当の女性たちが実際に"幸せ"というものについて、どのように自身感じているのか、ということについてはまた別であるかもはしれません。
が、その指標としては、平均寿命が唯一女性の方が短い国、というのが一番特徴的であるかなとは思います。
その研究は、文献研究であることの限界はありましたが、
NGO団体の資料など、一次情報を多用し、表やグラフを作成しての具体的な記述は、査読していただいた先生方はじめ、
多くの教授達からも評価していただきました。
NGOについての研究を行う中で、ODA(政府開発援助)や国際機関、事例国における政治や宗教、社会問題についても学ぶこととなりました。
ヒンドゥー教についての記述に触れたのも、この時が初めてだったと思います。
若かった私は、本の中には"正しいこと"が指し示されている、ということをあまり疑っていなかったと思います。
だから、一字一句、丁寧に文献や資料を読み込んでは、真逆の主張などには本当に頭が混乱したりもしていました。
何が真実か。
これは実際には、知識の中だけに存在するものではないと今は分かるのですが…。
ただ、当時の文献研究によってだけでも、世の中の構造について疑問をいだき、失望するには十分でした。
結論を述べると、
援助というのは、関わっている本人の善意などとは別に、
国同士の政治や国際機関による統治の枠組みに、やはり規定されざるを得ない、ということ。
私の研究は、学生レベルではありましたが、
それでも、
我が国が第二次大戦後、アメリカから受けた援助などを少し見るだけでも、
やはり、それは政策である。
そして、もっと言うと、
戦争と援助、戦争と産業、医療というのはやはり、切っても切り離せない。
一口に"援助団体"と言っても、その組織の活動の目的はそれぞれ。
私たちは、近代史を高校までの"教育"の中でほとんど習ってきていないと思いますが、
それも、"政策"。
ですので、今世の中で起こっていることも、昔から行われていることと、基本的には変わらないのかもしれません。
破壊した上に、新しい何かがもたらされる。
彼らは、あたかも救済者であるかのように振る舞うかもしれないし、
ボロボロに傷ついた方にとってみれば、自尊心からなにからもうボロボロなわけですから、
不利な条件さえも有り難い、となるであろうことは、想像に難くない。
ということで、
今日は、戦争と産業、メディアの働きなどについて考えていて、このような話題が浮かびましたので、こちらに書かせていただきました。
長文、お読みいただき、ありがとうございました😊
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