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女神の恩恵

苦しい思いをするからこそ、苦しんでいる人の気持ちがわかる。

この世で、"幸せ"といった場合には、それは基本的には自分の"エゴ"が満たされることをいうと思う。

誰しもに、エゴはある。

私たちがこの"肉体"という物質性をもって、この世に存在している以上。

世の中がある程度平和であれば、その"エゴ"はある程度オブラートにおおわれて、

他者のエゴとそこまで露骨に衝突することを、免れるかもしれない。

でも、その"平和"でさえも、実は自分には見えない世界での誰かの"苦しみ"によって、

支えられていたものであるかもしれない。

まして、

世の大多数の人たちが苦しみにさらされている、

このような状況においては、

どうか?

私たちは、頭で考える理屈やら、理想、概念だけでは生きていない。

私たちには、身体があり、生き物として他の植物や動物の生命をいただいて、

排泄をし、生殖をして、

生きている。

女性の場合には、毎月の生理で、腹の痛みや真っ赤な経血を見ることによって、

自分という存在は、大地の一部であり、自然の一部であることを、実感するだろう。

そのような生物的な事実は別に、否定されるべきものでもないと思う。

むしろ、人間の"自然"を禁止し、抑圧することの方が不自然だ。

システムの側は、このような私たちの"自然"を管理することによって、自らを維持しようとする。

だから、そこには当然齟齬が生じる。

"常識"というものは、このような社会のシステムの側によって、形成されているだろう。

それは、教育を通じて。

メディアを通じて。

"道徳"を通じて。

「正しい」こと「正しくないこと」は、この社会の"規範"に照らして、基本的な合意が形成されるだろう。

でもおそらく、その"合意"は幻想

それぞれの人の属する社会グループや、立ち位置によって、それは異なるだろうし、

個々人によっても、本来は100人いたなら100通りの「正しいこと」があるのだろうと思う

私たちは、「二元の世界」に生きている

「正しい」か「正しくない」か。

「良い」か「悪い」か。

「敵」か「味方」か。

苦しいことを経験することは、この二元の世界を超えるきっかけを与えてくれると思う。

そう、言葉で一言で表現したところで、

実際には、

その経験というのは、身をよじってあまりあるほどの苦しみであるかもしれない。

なぜならそれは、自らが信じて疑わない「私」という"自我"の存在を傷つけられ、破壊されるものだから。

しかし、一説によれば、それこそが、「恩恵」であるという。

苦しみや悲しみを知ることによって、「真実」への目が開かれる。

ニュースを流すメディアは、どこからその資金を得ているだろうか。

どの情報が本当で、どの情報は"虚"であるか。

その判断は、自分がこれまで生きてきた経験からくる"勘"がなによりものを言うかもしれない。

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