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本名が嫌でたまらなかった話

 私の本名が嫌で嫌でたまらない時期があった。
 嫌だったのは下の名前だが、いわゆるキラキラネームではなく至って普通の名前だ。「周りに良い人が沢山いてくれる、心の綺麗な人になるように」という両親の願いがこもった名前。しかし、それが嫌だった。
 私は幼稚園の頃から友達付き合いが下手で、学年が上がるたびに仲間外れに遭っていた。中学校時代は一人でいる時間の方が長かったし、高校時代にはクラスメートからのいじめに遭った。私以外の女子全員で輪を作られて、一人輪の外でお弁当を食べることもあった。
 そんな中で思ったのは「こんな名前、明らかに名前負けしていて恥ずかしい」ということ。私の名前は「花」とか「春」といった名詞などではなく、ストレートに意味や願いが伝わる漢字なので余計にそう思ったのだ。そして私をいじめていた高校のクラスメートからは「〇〇(私)ちゃんって名前負けしてるよね」と、私に聞こえるように陰口を言われた。漢字は違えど読みが同じ名前の子がクラスの人気者だったゆえに、その子の取り巻きから「〇〇って名前は一人いれば十分。紛らわしいから名前変えてよ」と言われたこともある。
 ハンドルネームのように気軽に変えられるなら変えたかった。自分でも嫌だったし、周りから「名前負け」と言われるのも嫌だった。自分の名前の漢字を口頭で伝えるだけでも嫌だった。それほど私の周りには良い人がいなかった。

 あれから十年以上経った今、そういった過去の出来事をふと思い出し、今はどうかと改めて考えてみる。
 高校時代のクラスメートとは誰とも連絡を取っていない。二度の転校の後、通信制高校で知り合って大学でも仲の良かった友達とはちょくちょく会っており、先日もLINEでやり取りをして話が盛り上がった。別の高校に通っていた幼稚園からの幼馴染は、結婚して横浜に行った今も頻繁に連絡をくれる。そして今、ヴァンフォーレ甲府のサポーターとなった私と仲良くしてくれるサポーターの皆さんがいる。今まで苦手で避けてきた手芸にハマり、私の作った作品を購入して喜んでくれる人がいる。
 名前を恥じていた当時からは想像もつかないくらい、仲良くしてくれる人、気にかけてくれる人が大勢いる。自分でも不思議なほどに。そう考えると「周りに良い人が沢山いてくれる、心の綺麗な人になるように」という両親の願いは半分叶っているように思う。まだまだ心の綺麗な人にはなれないけれど、今の私は沢山の良い人に囲まれ本当に幸せだ。自分の名前を恥ずかしいと思った私自身を恥じている。

 私のハンドルネーム「リセル」は本名とはまったく別の名前だ。しかし、それは自分の名前が嫌なのではなくて、単に身バレを防ぐためだ。とはいえ活動の幅が広がって本名が出る場面も増えたが。
 それでも今、私はこの名前を付けてくれた両親に感謝している。名前の意味を思い出すたびに、自分が沢山の人に囲まれているという幸せな気持ち、そして良くしてくれる人への感謝の気持ちを思い起こさせてくれる。私の本名は、そういう名前なのだ。

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