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Day 9. 知ったかぶりをしない

今日は数学のお勉強をした。
小学生の頃、算数はそんなに嫌いじゃなかった。つるかめ算とか解けたし。
しかし、中学生になって「x」という数字以外の何かが現れてから、私のキャパシティは崩壊した。

それからというもの、数学っていうものとは距離をとって生きてきた。中学二年生くらいには自然と文系の進路に乗っていったわけだけど、なんだかんだ数学の授業は受けないといけなかった。つらかった。

数II・数Bになってくるとテストでは0点〜40点くらいを行き来していた。図形問題ではもっぱら指や筆記用具で各辺の長さや角度を測り、推測し、そこそこの精度で回答率をあげていた。たまに問題文と関係ないスケールの図を載せる意地悪な(まっとうな)出題者がいて、そうなると私は寄る辺もなく数学の海に溺れるのであった。

わたしにとって数学の問題は理論ではなく「なぞなぞ」であった。正解する根拠がよくわからないけど、頭に詰め込んだ公式や無駄なセレンディピティでたまに正解する、みたいな。果たしてそれは学びといえたのだろうか。

そんなわたしが10年ぶりに数学というものに向き合っているけれど、やはりいまだにその本質がわかっていないようだ。相変わらずなぞなぞを解くような綱渡りの感覚で問題に挑んでいる。『博士の愛した数式』とか『数学する身体』とか読んでみてその哲学的な美しさにちょっと触れたつもりでいたけどやっぱりあかんわ。なんで関数があんな美しい曲線を描くのかまだ理解に至らない。とりあえずx=0を代入しては地道にグラフを書いて、よくわからないまま正解している。

ただ、前より勉強する楽しさは感じている。まだなぞなぞレベルを脱していなくても、正解できたら嬉しい。自信をもって出した答えが×だとひっくり返って恨み言を言う。いくつになっても勉強というものは楽しいものだ。ちょっと社会に出てものを知ったような顔をしているけど、y=ax+bとかlogとか言われると硬直する自分がいるのは滑稽で楽しい。テストの日にちが迫ってるので、そんな悠長なことも言えたものではないが。

数学をなぞなぞと思っている腑抜けたわたしにとってもフレンドリーな教材がある。"Khan Academy"というサイトの教材だ。

"Khan Academy"はいわゆるMOOCの一つで、無償でオンライン教材を提供してくれている。わかりやすい説明の動画と練習問題がセットになっている。こんな高品質な教材が無料でアクセスできるなんて、本当にありがたい世の中である。非営利団体が運営しているそうなので、いつか恩返しをしたいものだ。

あと、日本語での体系的な理解の必要性に駆られてこちらもkindle版を購入した。

わたし的に生命の神秘に並ぶ不思議レベルである関数の勉強に役立てたいと思う。

わたしたちは本当に「知っている」のか

さて、"Living in the Environment"の第十三章のテーマは「水資源」だった。
地球の7割は水で覆われているとはいえ、利用可能な淡水はそのうちわずか0.024%に過ぎない。それらは地下鉱床や湖、川、小川に貯められている。この貴重な水源を、わたしたち人間は暮らしや農工業を通じてばんばん使っては汚染してしまっているのが現状だ。

水は再生可能な資源とはいえ、自然に濾過するには長い年月が必要なうえ、貯蔵されている量には限界がある。また生態系や土壌がひとたびバランスを失うと適切に貯蔵ができなくなってしまう。コントロールの効かない水はむしろ災害として襲いかかってくることもある。

「水をたいせつに」の標語を知らない人はいないだろう。学校で教えられたり、TVコマーシャルで流れてきたり、最近では SDGsの旗印のもと叫ばれていたり。これはその通りで、間違いなく水は大切にしないといけない。だけど、こうも垢がついた言葉をあえて咀嚼してその意味を考えることはそうそうない。なぜ水は大切にしないといけないのか?どうしたら大切に扱っていることになるのか?

ここに「知ったかぶり」のこわさがあると思う。「あーそれ知ってる」止まりの認識は、ゴツゴツした岩盤みたいなもので、それ以上の知恵が浸透することを阻んでしまう。森林破壊とか水資源の減少とか、何度も繰り返し聞いてきたテーマをあえて学び直していると、いかに自分がこれらについて何も知らなかったかを痛感する。どんな学びも「無知の知」から始まる。わたしはまだ何も知らない。だからこそ、もっと知りたいと思う。

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