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トラウマサバイバーとしての赤毛のアン

小学生の頃、赤毛のアンが大好きだった。

好きすぎて友達とアンとダイアナになりきり、木や道に名前を付けたり(もちろん恋人たちの小径、と)、新潮文庫の最終巻まで集めて宝物にするような子供だった。

本が大好きで、学校がない日は朝からベッドで本を読むことができるのが幸せで仕方なかったし、休み時間は友達と小説の続きを書いて読みあったりした。

おしゃべりで感受性豊かでアンに似てるねなんて大人に言われたらますますその気になって、いつかプリンスエドワード島に遊びにいくのが夢の1つとなった。

そのうち中高生、社会人となるにつれ、メルヘンなアンの世界からはずいぶん離れてしまった。小説や文学作品を読むことよりも、専門書や実用的な文章を読む割合が増えた。

気づけばいつのまにか私は2人の子供の母になり、ふと目にしたNetflixで「アンという名の少女」というドラマシリーズがあることを知り、「また子供の頃のメルヘンで幸せな記憶に浸りたいな」ととても気軽に視聴を始めた。
でもそこで見たストーリーは「感受性豊かでお転婆な女の子の物語」では全くなかった。

アンはトラウマサバイバーだった。

当時の社会では子供の人権があまり守られることはなかったのはもちろん、孤児であり虐待を受けていたアンの境遇は、あまりにも酷いものだった。

アンが想像力豊かに空想の世界に浸り、小説を読みふけるのは、
辛くて過酷な現実から少しでも離れるための自己防衛手段だったし、
まくしたてるようにおしゃべりが止まらないのは、
普段話をゆっくり聞いてくれる大人がいないから。

時折訪れるフラッシュバックのせいで現実と幻想の違いがわからなくなるし、ちょっとした出来事でトラウマ的感情が発露して抑えられなくなる。

そんな中、心のケア、ましてや子供の心のケアなんてまったく無視される時代に、周囲の数少ない理解者(マシューやダイアナなど)と共にゆっくり心の癒しを深めていくアン。
沢山沢山傷ついたからこそ、どんな人にも平等に心からの優しさで接し、持ち前の地頭の良さと知性を持って、自分の人生を切り開いていくアン。

あくまでもNetflixシリーズの赤毛のアンの話ではあるけれど、深く深く私の心にしみわたる何かがあった。

最近になってようやく心のケアの話も色々なところで聞くようになったけど、これまでの歴史において沢山の沢山の、傷つき傷つけられた人々に想いを馳せた。(過酷な状況の中でも命を繋いでくださってありがとう、と)

最近読んだ本では、人の遺伝子には細胞レベルで代々心の傷(感情エネルギー)を受け継ぐのだそう。その連鎖をようやく解くことができるのが今の時代なのかもしれない。

心の傷がない人はいない、ある人は、どんな人もトラウマだらけ、なんて表現をしていたけれど、自分に感じる傷は、もしかしたら過去の壮大な歴史から受け継がれてきた、「誰かの人生における傷」なのかもしれない。
自分が辛いのは〇〇のせい、と苦しんでいる人がもしいたら、こんな考え方も少し楽になるかもしれないな、などと思いながら。
(〇〇のせい、と考えるのは自然で当然なこともあるけれど、エネルギー的な視点で言えば、内にあるものがただ表現されてるだけ、とも言えるのだ。
例えば自分を蔑んでいる人が、自分を蔑んでくれる他者を必要としてしまうように。)

アンというなの少女、とてもおすすめのドラマです。

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