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ラミネートする事

ソラニン

の予告編を観た。

osageのギターのかねひろさんが久しぶりに映画観たって書いてて、憧れのバンドのギタリストの青春の映画なんだと思うと気になって。

予告編を見て泣きそうになって、別バージョンで完全に泣いて、もう一度予告編を見てまた泣いて。

行きの電車でバスで、朝っぱらから涙を拭いている。

2010年くらい、私が小学生の頃くらいの映画のタッチってどうしてこんなにいいと思うんだろうか。
アジカンのソラニンがこの頃新曲で、この映画の書き下ろしだったんだな、あぁこの頃はスマホなんて無かったな、とか色々。

この頃の私はまだ小学生だったし、こんな映画に触れることなんてなかった。

だからこの映画を観て青春を感じ、バンドをやっていた学生のかねひろさんが少し羨ましい。

まとまらない文章だなぁ。

でもそれでいいのかもしれない。
パッと綺麗にまとまるだけが良いことではない。まとまらなくてぐじゃぐじゃで雑然としたものにこそ、本当がある気がする。整えられてラミネートされる前のラフな文章にこそ。

ソラニンの亡くなったバンドマンの作った、歌った曲を歌い継ぐ彼女は、人生を変えてくれた大好きなバンドマン亡き後ボロボロになりながらも周りの人に励まされて音楽を続けている自分と重なる。こんな重なることあるんだ、と思うくらい。

sumikaは綺麗に整えられてラミネートされた、いかにもメジャーアーティストらしい曲たちを出すけれど、自分も変わっていってsumikaも変わっていって、距離がどんどん離れていくのがめちゃくちゃ分かる。これじゃない、こんなの悲しい、と思ってばかり。

でもきっとギターが入った曲だとしても、どんな曲でももうsumikaにはあの「青春感」は出せないんだな、と思う。期待するのも悲しいだけだ。メンバーの死を経てまだ青春が出来るなんてことはないのだ。そりゃそうだろう。人生の最初の方であると、まだまだこれからやっていくんだとそう思ってそうやって音を鳴らしているから「青春感」は出せるのであって、人生の最後が見えてしまった人達に出せるものではない。きっとみんな「成熟」「円熟」と引き換えに「青春」を手放す。

きっときっと私の好きな他のバンドたち、今救ってくれるバンドたちもずっと傍で「青さ」を鳴らしてはくれない。osageもIvyもきっといつか、変わっていく。サヨナラが来るだろう。それは私が生き物だからで、バンドが生き物だからで、メンバーが生き物だからだ。

でもosageのケンタさんがアメノイロ。のラストツアーでアメのファン達に語りかけたように、曲はずっと残るし、生きて存在しなくなったものは「自分だけのもの」になる。大切だと思える一瞬一瞬を、小学生の頃、愛犬のキャンディの毛を亡くなってから見つけてはセロハンテープでサンドして大事にしていたように、自分なりのラミネート方法で保存することは出来る。というか、そこにしか救いなんてないのかもしれない。

突き詰めれば、自分。自分が大切なものをどう心に留めておくか。自分が大切なものをどうやって忘れず生きていくか。それをどんなふうに自分の生み出すものに滲ませていくか。そうやって考えて試し続けていくのがきっと、大切な思い出の扱い方なんだろうな。

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