200624 再考:対人関係

↓先日の日記
200319 いわゆる「恋」と「愛」
200607 本音
200609 関係の端緒としての「恋」
200610 〈メモ〉ゲシュタルトの祈り

これらを書くことで、結局私は何を明らかにしたかったのか。
「お願いだから、どうか助けてほしい」という他者への切実な懇請と、「自分が助けられること」への期待に根ざした関係構築の試みとでは、両者は本質的に全く異なるものだということを、私は確かめたかったのだと思う。

対人関係に対する「理想」や「夢」が強すぎると、私は自覚なしにそれを他者に押し付け、他者の声を聞き逃し、健全な関わり方を見失うことになる。少なくとも、自分の理想ありきで、そのために新たな人間関係を構築しようとするのは、やっぱりどこか間違っていると思う。目の前の他者に対して失礼なことだし、仮に理想的な関係が実現することがあるとしても、それはあくまでもコミュニケーションの結果として現れ出るものである。理想を作出しようとしている時点で、それは独りよがりな妄想に過ぎない。

もちろん、これから先、誰かの存在や言葉によって「救われた」と感じる瞬間は、たくさん訪れると思う。それに、自分一人では立ち行かなくなったときに「相談させてください、助けてください」と声を出すことができるのは、生きてゆく上で必要な能力の一つだ。それを否定してまで孤独を擁護するのは、安易な自己責任論に結びつきかねない。そうではなくて、今私が自分を戒めたいのは、他者との関わりに対して「自分が抱えている問題を解決してくれるかもしれない」という期待を抱き、そのために他者と向き合おう(他者を利用しよう)とする甘えた根性は捨てなければならない、ということ。

ありもしない想像上の物語(理想)に気を取られてはならない。私が集中するべきは、今現在において他者とどのように関わることができるか、また、他者に対して私がなし得ることは何か、ただそれだけを真摯に追い求めることである。その過程を経て結果的に実現した人との関係の形は、ほぼ確実に私の思い描いた理想とは異なっているだろう。

けれど、自分の想像の及ばない仕方で物事が展開し、そうして目の前に立ち現れた関係であれば、どんなものであれ、ありがたく受け入れたい。そう思える人になりたい。だから、問題や悩みの解決手段として人との関係を求めるような、自分の中のそういう卑しい心に気づく努力をしよう。他者は、「私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない」のだから。