200609 関係の端緒としての「恋」

追記(201212)
記録用


私は人に対して「かっこいい!」とか「すてき…!」という強い感情を抱き、ときめいたりドキドキしたりするという経験が少ない方だと思う。近年はその傾向が顕著で、現実に出会う人(限りなく少ないけど)、メディアで目にする人とを問わず、「ふーん、最近はこういう人に人気があるのね」くらいの冷めたテンションでしか眺めることができなかった。

この傾向の主な原因は、おそらく「婚活」という文脈のなかで必要以上に理性を働かせてきたことにある。長期的な関係構築を試みる上で「恋」は適切な判断を妨げる要素、つまり害悪になりうるものと私は認識しており、したがって「恋心」を半ば意図的に封じ込め、捨て去ろうとしてきた。(※関連:200319 いわゆる「恋」と「愛」

だけど、諸々の経緯を経て婚活そのものを一旦白紙に戻そうと思い直し、久しぶりに理性を手放してみると、おもしろいほど自然に「この人すてきだな」と思える人に出会った(メディアの中で)。色々な制約を取っ払ってしまえば、素直な欲望≒「性癖」が見えてくるものだな。(性癖:人間の心理・行動上に現出する癖や偏り、嗜好、傾向、性格のことである。後述の通り「性的嗜好(指向)」とは異なる。/Wikipedia


「恋」のようなものを感じた相手は、偶然見かけた中国ドラマに出ていた俳優さんである。ドラマのあらすじも知らず、とあるシーンを見かけただけなので、役柄の設定や演じる俳優さん自身について、私は全く情報を持っていない。これは純粋に、そのワンシーンだけを見て抱いた感情である。
私がつい魅入ってしまったのは、一見キレイに取り繕ってるけど野心家で人として下品な内面(すごく失礼)がにじみ出てる感じ。つまり、のし上がるためならどんな手段にも打って出ると言わんばかりのずる賢さと計算高さ、狡猾さが透けて見えるような鋭い眼差しが、単純に好きだなと思った。

その俳優さん、顔の造形が特別整っているとは思わなかった(もちろん一般論として「カッコいい」人なのはわかる)し、むしろ顔はタイプじゃないんだけど、いわば「本能的」に惹かれるものを感じた。随分昔に好きになった人も、そういえば同じ目をしていた。生に対するある種の貪欲さ、溢れ出るような生命力の強さ、上品で紳士的な振る舞いを(顔には出さずに心中)鼻で笑い飛ばしてそうな少し腐りかけの心根、自分が利を得るためとあらば、とてつもない精度とスピードで謀略をめぐらすことのできる頭脳のスマートさ。それらすべてが自分にはないものであり(ともすると私は現実離れしたユートピアに安住したがる傾向にあるから)、だからこそ、自分の資質と対照をなすそれらの特徴はどれも新鮮に思えて、心惹かれたのだろう。


私は自分の性癖を披露するためにこの文章を書いているわけではない。ここで重要だと思うのは、中国ドラマの俳優さんや、かつて「恋」した人に対して私が抱いた感情は、彼らに由来するものではなく、私自身の「観念」から生じたものである、という事実である。
フレデリック・ルノワール(2019)『スピノザ よく生きるための哲学』(田島葉子訳)ポプラ社では、「認識のあり方次第で人の喜びの性質が変わる」ことを示す例として、男女の出会いを挙げている。(この本は著者のスピノザへの愛に満ちた、スピノザ理解のための優れた入門書だと思う。本来ならこの文脈だけで部分的な切り取りをするのは非常にもったいない本なので、また別の場所でこの本全体から学んだことをまとめたい。)

スピノザは愛を「外的原因についての観念に伴って生じる喜び」と定義している。たとえば出会った異性に恋をしたとき、外的原因とはその異性のことであり、この時に感じる喜びは、(中略)愛する人から直に得られるのではなく、その人に対する自分自身の「観念」〔主体が対象に対して抱く主観的な考えや思い〕から生じる喜びである。(p.146)

そして、この「観念」が適切でない場合、

そこから生じる喜びは受動的であり、その愛はいわゆる幻想の上に成り立っているため、時が経てば消えてゆく。スピノザはさらにこうも言っている。私たちが幻想から覚めて相手をありのままに認識したとき、この喜びは悲しみに、ひいては憎しみにー彼は「憎しみ」を愛と対比させ、「外的原因についての観念に伴って生じる悲しみ」と定義しているー変わるだろう。(p.146)

(スピノザの「愛」と「憎しみ」の定義は、なんてスマートなんだろう…!という感動は、とりあえず横に置いておくとして)この本で説明されている「不適切な観念に基づく愛」は、今私が話題にしている「恋」と同義とみなしてよいのではないか。言葉の使い方の違いはあるけれど、想定している状況はほぼ同じものだと思う。さらに本文は以下のように続く。

ほとんどの場合、恋愛は幻想から始まる。私たちは相手のことをよく知らなくても恋に落ちる。よくあるのが「投影」と呼ばれる心理作用によって、自分が抱いている理想のイメージを相手に映し出し、それに惚れ込むケースである。(中略)私たちはその他にも、自分では気づかないさまざまな理由で魅了され、錯覚を起こし、あらぬ期待を抱いて、出会った異性を愛するようになる。要するに、男女の絆のほとんどが幻想や錯覚の上に、つまり理性よりも想像力に基づいた認識のおかげで結ばれるということである。(p.147)


ここで再び私自身の話に戻る。
俳優さんや出会った異性に対して私が抱いた感情、彼らを見て私が感じた喜びは、彼ら自身から直接受け取ったものではなく、彼らに対する私自身の「観念」から生じたものである。そして、この「観念」が不適切なものである場合、私の喜び(恋心)は幻想や錯覚の上に成り立っているので、夢が覚めて相手のありのままを認識すると、喜びは消え、悲しみや憎しみに変わってしまう。

私が誰かに「恋」をするとき、私は自分の心の中で描いた一つの理想を、彼の中に見いだす。その理想は、彼自身のパーソナリティや価値観とは全く無関係のところで成り立ってしまうのだ。この事実に気づいてしまった以上、私は自分の独りよがりな理想のイメージを他者に映し出す行為=「恋」を無邪気に楽しむ気には、どうしてもなれない。「恋」は自分の理想を他者に押し付ける、ある意味思いやりに欠けた行為のように思えてしまうからだ。


昔街中でいきなり「CAさんみたいに清楚ですね」と声をかけられ、連絡先を聞かれたことがある。いわゆる「ナンパ」といってよいだろう。もちろん彼がどういう心持ちでどんな目的を持って(何かの勧誘とか)その発言をしたのか、私には知る由もない。少なくともはっきりしているのは、上記の発言は「誉め言葉」のつもりで発されたものであり、「連絡先を手に入れる」という結果を得るために有効に働く(私が気分をよくする)と見なされていたことだろう。

無論私の職業はCAではなく、自分を表現する言葉として「清楚」というラベルが適切だとも思わなかったので、ただただ不快で、すぐにお断りした。しかし、もしもここで私が別の反応を見せていれば、この一幕は恋愛関係の端緒となることもあり得たのだろう。
要するに、一方が他方に向ける「好意」という名の幻想が、他方の側の自己認識(もしくは理想の自己像)と一致すれば「恋」は成就し、逆に一致しなければ、「好意」は一方から他方への価値観の押し付け、もしくは個人の領域侵害だと認識される。(少なくとも私はそのように思う。)


私は他者からの「好意」をさほど喜べない。大抵それは、私の自己認識とずれているから。あるいは、私は自分の「好意」は幻想に過ぎないと思うし、その積極的な開示を好まない。他者にとってそれが不快の種になる可能性を常に意識しているし、何より私の「好意」以上に、ありのままの他者と向き合い、彼自身の声を聞こうと努力することの方が遥かに重要だと思うからだ。
こんな調子じゃ「恋」が始まりようがないのは、至極当然である。だけどじゃあ、人は「恋」なしでは関係を結ぶことはできないの?即座にそんなわけない!という気持ちが沸き上がってくるけど、どうやって「恋」抜きで、それとは別の入口から、人との親密な関係を発展させうるのか、今の私にはよくわからない。

私は「恋心」を全く信用していない。自分の性癖の発露として冷静に眺めるか、ただのファンタジーとして片付けてしまう。でもそうなると、全く知らない人間同士を結びつけるきっかけが失われて、永遠に一人ということになるのかな。「尊重」という名の大義のもと、他者を他者として自分の「観念」と切り離して捉えようとする限り、特別な深い関係を結ぶための緒は、見いだしえないのだろうか。


追記(200711)
たまにやわらかい話題の世界ニュースなどで「出会った瞬間に恋に落ちて結婚し、数十年間お互いへの恋心を失うことなく添い遂げた後、ほぼ同時期に亡くなった」というようなカップルを見かける。
この文章では、スピノザのいう「不適切な観念に基づく愛」を一般にいうところの「恋」と同義であると見なし、書き進めてきた。それでは上記の例は、出会いの瞬間から互いに「適切な観念に基づく愛」を抱きあっていた、ということを意味するのだろうか。

この事例のような、ある意味理想的ともいえる関係を築けるカップルも、世の中には一定数存在するのだろう。そうしたカップルはどの程度の割合で出現するのか。また、普通のカップルや破局を迎えるカップルと彼らとの決定的な違いは、どこにあるのか。
こうした疑問について科学的な検証を試みている研究は、既に存在してるのだろうか。「二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」という、おとぎ話のハッピーエンドを地で行く人たちに共通するものを明らかにできれば、パートナーとの健全で良好な関係構築についての「科学的な知見」を確立できるのかもしれない。

パートナー関係、とりわけ子どもが育つ場としての家族関係や親同士の関係は、コミュニティの最小単位として機能する。その場を構成する人々にとって、そこをいかに安全かつ快適な空間にできるかは、より大きなコミュニティの健全性(安定)にかかわる非常に重要な課題であると私は思う。だから、男女や夫婦、パートナー同士などのより良い関係性について、きちんと考えたい。自分個人の問題としてだけでなく、社会に対する眼差しの一つとして、大真面目にこの問題に取り組んでいきたい。


追記(200712)

どうしよう、予期せぬ形で大変な映画を見てしまった…
ここに書いたこと全部どうでもよくなってしまうくらい胸に突き刺さる。この感覚は、Allacciate le cintureを見たときの衝撃とよく似ている。結局私は「恋」に身を投げ出して後で傷つくのが怖いから、御託を並べて自分を守ろうとしているだけなのかもしれない。「恋」の美しさに簡単に酔ってしまう。そうしてリアルを見失ってしまう自分を戒めようとして変な方向に力が入った結果が、この文章なのかもしれない…自分の未熟さが痛い。
色々わからなくなってしまった。もう少し時間を置いてから、考え直そう。