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春のイモムシ

イモムシが好きだ。

何度も書いたり叫んだりしている気がする。ずっと前から好きだったわけではない。昨年の夏に、のそのそと桜の樹から土へ降りようとしているスズメガの大きな幼虫を手に乗せた時、身体の細胞が全身で喜んでいた。

緑色の身体はクリームソーダのように穏やかで爽やかで、マットなスベスベ肌はしっとりと暑い夏にひんやりと手に清涼感を感じさせてくれた。

最初、手に乗せてみようと思った時、躊躇がなかった。イモムシ、幼虫、昆虫類は大の苦手だったのに。もちろんこれをひょんなことで読んでしまっているあなたも苦手かもしれない。けれど私は書きたいのだ。

とにかくとても愛らしかったので、無意識に手が出てしまった。そっと乗ってきて手の中にモチモチとした腹脚が吸いついて、やや恐る恐るなのか、ゆっくり私を樹の延長として乗ってきてくれた。最後の方は腹脚が樹にくっついていたのでニョーンと伸びて引っぺがした感じだった。申し訳なかった。

手に乗せた時、なんというか前頭葉がぱああっと明るく開いた感じがした。とてつもなく嬉しかった。この社会の中で、世界の中で私は命そのものが動いていること、無条件に生きて良いことを、知った。手の中でいもいも動くその子は私に何を教えてくれたのだろう。

くるんと怯えて丸まってからすぐに私たちは打ち解けた。もちろん毒もないおとなしいイモムシだということは事前に知っていたのだけれど、ただそのあともいろんなイモムシに出会って、飼育したり、看取ったりした。命を観察するというのはやや偉そうで申し訳ない。けれどいろんなことを教えて貰った。

まずその愛らしさは、手の中でふんわり優しさの塊というか、愛ってこれかなという感じでのそのそと葉っぱを探す。びっくりさせてしまってのけぞることもするし頭を引っ込めてぽってりした姿や前足を胸に合わせて固まるびっくりポーズも、いろんな表情を見せてもらえた。

存在について、もちろん野菜や樹や植物に害があったり、それが外来種であったり(外来のその命が悪いのではなくて)母国にいるはずなのになぜか現在地に生まれてしまったものもいる。

良いところばかり見てしまうのも苦しい
悪いところばかり見てしまうのも悲しい
けれど出逢った時に、その体験は私に命の輝きを見せてくれた。

生き物は好きな方で、魚なんかも、子供の頃は父がすだれで畑の水路をガサガサしてタナゴやヨシノボリをとって水槽で飼ってくれたのをずっと見ていた。犬もぽこぽこ子供を産んで子犬やら子猫やら野良や寄生虫やタマムシカブトムシ、ゲジゲジムカデ。あとは図鑑をよく見ていた。なんだか生きているものを見るのが好きだったみたいだ。草とかも、9歳の時見た金魚草という草花にはとてもびっくりした。金魚みたいだったからだ。サギ草も白くて白い鳥が飛んでいるみたいにそっくり。草だ。視線が低かったんだろう。変な落ちているものをよく拾った。ただの石とか、黒曜石を見つけたりした。いつまでも忘れまいと今もその時の天気とか、帰り道とかで神様に誓ったのを覚えている。

命の消えることも知った。たくさんお葬式もあったし、その度家族親戚で懐かしんだ。犬も何匹もそんな経験をした。いつでも悲しいものだ

いろんな命が巡ってまた地球の一部になるとなんだか勝手に信じている。しばらく、その感覚と遠ざかって私は歩くのも怖くなった頃がある。脳が疲れていたのだろう。

昨年はそんな、イモムシとの出会いが悲しくて嬉しかった。今年は帰省も自粛だけれど、その分連絡を取ったり、地元の友達のサボテンの花が咲いたと写真を送ってくれたり のんびりしてコロナを心配している。

正月に好きなことを構わず書いてみたかった。こんなことは、これからもあるのだろうか。でも、かっこつけたいと思うし、たまに子どものように戻りたい。人は何てわがままなんだろう。イモムシはとても自立して立派だった。樹に返して、その後ちゃんと土に潜れたかなと、思った。

春が来る。虫が好きになった私は、今から春のどんなイモムシに会えるのか楽しみでたまらない。なんだか変なこと書いたなあと思うけど、存在や趣味の価値感て、本当は意味なくて、ただ自分が存在することを降参して地球号に乗って叫んだり泣いたり喜んだりしているうちに、また巡るんだと思う。

新年、あけましておめでとうございます。どうぞ今年もなんとかよろしくお願いします。

2021 正月 北原裕理


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