見出し画像

窓をたたく女

夏になると決まって不思議な出来事の番組や、盆近くになれば何か普段とは違う空気が流れていた。なかなか、今夏休みなんて意識しなくなってしまったけれど、あの雰囲気を皮膚の下に潜んでいる忘れた神経痛のようにピリピリと感じる時がある。

免許を取り仕事も始めたばかり、私は運転を練習しながら一人のその時間を楽しんでいたし月給もわずかだが実家だったため車のメンテナンスには十分でドライブのみで随分遊べた。その始めのうち夜は交通量も少ない田舎の道路。コースは公園入り口交差点までの一直線だけだったが、途中信号も少なくて初心者の運転練習には最適だった。

車内で音楽をかけながら、毎夜走りに繰り出していた。そう言った習慣だか依存的になってしまったあるお気に入りの行動は、何があってもなかなか屈しないもので。。。そんなことがあってもそこを通るのかと、人間の精神の柔らかさを自分に見たときのことを思い出そう。

それはとても快適な夏の日の夜だった。とても気持ち良かった。窓を少し開けて一人で好きな音楽をかけて、確かラジオを聞いていたと思う。あの、飛行機に乗っているような気分にさせてくれる夜のラジオだ。缶コーヒーを買ってさながら走り屋のように長い直線を何度か往復していた。たった2キロもないその道のりには短いトンネルがあった。トンネルの前で信号が久しぶりに赤に変わったので止まった。

少しにわかに雨が降ってきた。辺りに止まっている車もなければ少し後方のコンビニの明かりのみであったが、助手席側の窓を叩いているのが背の高い女性だというのを確認するには十分な明るさだった。

「乗せて行ってもらいえませんか」雨の降り始めた中髪の長い大きい女の人らしいその人はおそらくそういってガラスを軽く叩いた。私は何を思うか少し窓を開けて「すみません、急いでいるので」と言ってロックがかかっていることも確認せずに受け答えをした「どうしてもダメですか」と、尋ねられたので今度は「すみません、予定があって」と、嘘も考える暇がなくそんなことを口走っていた。不思議と焦る気持ちも怖いというような感情もなかった。その女の人は髪が長くて紫とかピンクとかでエクステを付けているようで年齢不詳だった。口紅がとても赤かったのを覚えている。前髪は長くて目とかはわからなかった。ただ自分のその頃の髪型と似ているなとだけ思った。毛皮のジャケットを着ているような気がした。季節に合っていなかったように思える。白いフサフサしたやつだ。声は覚えていないが普通だったと思う。でもとても背が高かった。

地元ではそうびっくりしたことではない。そんな自分の中の誰かがつぶやいたように思えた。ましてやトンネルの上は、墓が立っていたし、そう結び付けてもおかしくないと思って、丁寧に断ってなんと信号が変わるまで止まっていた。女の人は進んで自分で歩いて行ったのをサイドミラーで確認した。ハイヒールを履いている。バッグは持っていないように見えた。それにしても夏に暑そうなジャケットだ、と思った。もしかしたら結婚式の帰りで酔っ払っているのかもしれないと適当なこじつけを自分の中に走り書きした。

そのような噂は聞いたこともないし、よくトンネルの付近や中で何々を見た。とかはよくある話だ。しかし居眠りをしていたわけでもなく、極めてまともに覚えており、人間らしい対応をした。しかし口紅の濃さと長い髪だけはよく覚えているようで、目は見えなかったしその時は恐怖とかそういうのは感じなかった。驚くほど冷静だったし素っ気なかった。そもそも女性だったかもわからないしなと思った。声を覚えていない。なんだったんだろうと思いながら普通に帰宅して犬が待っている家に戻った。家族はもう寝ていたし父親が玄関横の居間で寝ているのだけれど、いつもと変わらない風景だったしテレビの明かりだけが付いていて起きてるか起きてないかもわからない。犬だけが暗闇の玄関の中尻尾を振っておかえりと少し鼻を摺り寄せるだけだった。コンビニで買ってきたアイスはもう溶けてしまうところだった。

そのまま寝たのだろうか。翌朝は何事もなく仕事へ向かった。車に乗って同じ道を通るし夜も帰りに通るだろう。しかし、怖いとかいう感情が全くない自分に少しそっけなさを感じていた。いざという時、怖くないのだろうか。ましてや警察の跡形もないし、私は一体、誰を見たのだろう。田舎だからすぐに噂なんて広まる狭い共有範囲なので、そんなのがあればすぐ耳に入るのだけれど。しかし、なぜか私は誰にもそのことを言ったことがなく、ずっと今でも少し心に引っかかるのだ。それ以来助手席のドアを必ずロックして、車に乗らなくなった今でも、たまに誰かの運転席やタクシーなんかに乗ると、思い出しちゃうから嫌なんだけれど、特に気になるほどでもない。ただその陰影だけが心にずっと、乗ってきたまま私という身体から、降りていかないだけのことで、今はいない犬だけが知っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?