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本当に欲しいもの

わたしは本当に欲しいものを避けてきました。

その間に日々刻々と時間が過ぎ、本当に欲しいものが何なのか選択肢が多くなるにつれ、代用としては手に入れて、捨ててしまっていました。

自分の身体でさえ捨ててみたかった。では何が欲しかったのだろう。

それは今になると少し霧が晴れた中に手が出てきて引っ張ってくれる感じがします。まず、絵をずっと描いてきて、大学に行っていない勉強をしていないとコンプレックスを持ち続け、フラフラと他の慈愛満ちた人々を羨ましがっていた。実際は私の色眼鏡であるのだろうけれど、何か、喉が乾くように本当に欲しいものを求めていた。言ってしまえば  THE 愛 なのだろう。

愛が欲しいというか愛情を、満ち足りたて心配事もない安全な状態を求めていた。つもりだった、しかしながらよくよく考えてみると、実際そんなに苦行しないと生きていけないような環境でもないし、家族のいざこざや複雑な血縁やなんだか子供の頃のたぶん清い心を汚されてしまったような受動的な自分でいることをそのまま哀れんでいる段階だったのかもしれない。

社会に出てからもいじめみたいなのを感じています。今風でいうとハラスメントなんでしょうか。だが私は気性は激しい方で、思ったより図太いんだねとかびっくりされることもある。怒ることももちろんある。けれど外から見ると人はぞっとするらしい。。こう書くと本当に嫌になってきます。他人からすると何を考えているのかわからない風に蝋人形化しているようです。某ハンバーガー店のイメージキャラクターを見た時のトラウマが蘇るようなのだろうか、、それは私だけ思っている感覚なのかわからない。怒りを溜めているのか本当に喜びを味わっているのか、他人のことはよくわからないものでいいのだ。そこまで侵入をしてもされても生存に対して脅かされるようなことなら、ささいなことでもまず自分を守ることだが大切だと今まで歩んできて思ったのです。

無表情で怒りを溜めておさついも良いところ、けれどそんなのってみんなあるんじゃないかなと思う。けれど私はそんなどうしようもない自分が割と好きです。わりと。でも本当に嫌だなあと思うこともある。というかそれしか思ってなかったけれど。経験をアップデートしていくとともになんとかここまできましたという感じでしかない普通になんとかマイナスがついたくらいの精神になれただろうかという思いです。でもいいんです。

アンニュイになってしまうのもいいだろうし、ジェンダーなども今人間はだんだん進化していると私は思っているので違和感を感じるのは進化途中だから仕方ないし当たり前のことかもしれない。その当たり前のことで苦しむ人がいるということを想像するのは自分も割とマイノリティの誇らしさがあるからかもしれないなと思います。

話を戻しましょう 誰でも、その一線を越えてはいけない何かはわかると思います。いち早く誰かそれに気づくこと、それは自分かもしれない。いや、自分しかいないと思うのです第一発見者は。命というのはそれくらい 柔らかく強靭なものだったり、そうでなかったり、昆虫を飼育してみたり動物の状態を見ていると割とびっくりする発見があったりするもので、自分は自分を飼育していると思えば何とかならないだろうかと思うのです。例えば、飼育する事愛でる事はその訓練、演技による自己の存在を丸ごと受け入れられる準備の演習なのかもしれないなとちょっと最近思いました。

そんな虫さんたちに今は本当に感謝している。

しかしそれにはそれにつながる長い道のりがあったなと思うと尊いものです。イモムシの育成により症状がよくなるという何かホリスティックというのかそう言う療法があるのかなければ発表したい気持ちでもあります。命に触れた時それはこれこそが THEセラピー だと思ったまばゆい瞬間でした。

それは他の哺乳類でもいいと思いますが絶対てきに愛でれるものを愛でてみることでいいんじゃないかなと思いました、植物でもいいでしょうし、私はよく植物を枯らしてしまうけれどイモムシをきちんと羽化させて羽ばたかせられたことは誇らしく思えて大人になった気がしました。アホな例えとアホな事例かもしれませんが、ちょっと、自分がいいじゃないと思えるようになれたのです。

平穏に生きてこれたのは奇跡的でそれが申し訳ないとも思うのです。けれど、どうしても合わせられないリズムというか、そういうのってあると思う。少なくとも日本で生活しているなら日本のルールっぽいものってあると思うしそれがきついと思ったりするのになぜかそれにしたがっている何かがあったりする。

こんなことをタラタラ書いていて自分も嫌になってしまうくらいだけれど。しかし私は書くことが生きることとすごく密接した時間が多かったんだろうなと思います。それは。幼学年の時の、あのねノート が大きいかもしれません。あとは、叔母が早く言葉を教えてくれたことというか、その言葉はこんな感じだよという目に見えない言葉、しゃべることのできない透明な言葉を教えてくれたから奇跡的でありがたいのです。

本当に欲しいものは何か。わたしは自分は絵を描いて一人前になって家の借金を返すことを目指していました。そのあとは子供が抱えるものではないと気付いたのだけれど、毎日漫画の練習をして、漫画家になって安心したいと思ったのです。子どもらしいアホな夢で実際漫画や絵は努力したので少し描けるようにはなっても仕事はできないんだなとある時期にわかり、第一同期が不順なので成されないままで本気になれなかった人間なんだな。それでもできる、本当に思ってる人はできるのだろう。でも自分はこんなでも なんだか 謎のいい人 になりたい と思い始めてきました。しかしこれも、文章を書くきっかけをもらえたことがとても大きく、これが一番欲しかったことかはわからないけれど、今はこれだっった。って、思えるのです。言葉でうまく伝えられなくても文章を書くことで伝えられる何かがある。文章のルールとかもあるだろうけれど、いいんです。自分自身の心には好きに書いて。だって自分は一人しかいないし、自分ルールしかありません。発表する場では言えない、書けない書いてはいけないこともある。それは自分がされて嫌かどうかでわかることでもあると思います。一人で色んな自分をしているのだから、忙しいし、自分の中の自分さんたちは寝たり起きたり働いたり忙しいのだから、本当にワクワクする、してしまうことが日記手帖に文章書くってそれくらいい許してくださいという感じになる。言葉が大切な今、このようなふんわり感をお勧めするとすれば、。それが言葉じゃなくて自分の好きなゲームだっていいし、もう、我慢の時代は後ずさりしているんじゃないかなと最近の社会状況を見ていても思います。精神の、放出の我慢。これがあるから勉強できる。これがあるからなんだか今日いい気持ち。それくらいの小さな、小言を書くことがあっていいと思うのです。しかしネガティブそうに見えてもポジティブな言葉というのは存在する。それは色々な本を読むことかなあと自分では思いました。あとは身体の声を聞いてみるフリでもいいかもしれない。その一線 何か越えるとエラー表示になるよなことは、それで防げて、自分がいい環境になるといいなという儚い期待をしてしまうのですが。。

今日は何を言っているのかわからないにさらに拍車がかかっている感じがするけれど、私から見たらみんなが羨ましいし、亡くなったことでさえ羨ましいと思ってしまうほど何かに飢えている人間でした。世間的には異常だし、言ってはいけない。書いてはいけない気もします。けれどそれは異常な状態でもないのかなと思います。だって世界で生きることはつらいもの。ネットで見るこういった文章と、本で書いてあるものは少し受け取り方が違ったりするから甘えで書いてしまっている私は本当は良くないのだとも思います。なんで先に天国らしきところにいってしまって、、って、なんとなく虫に、思うんですけどね。でも一線というものが、見えない壁で守られているなら無理に壁を崩壊させなくていんだなと思いました。穴を開ければ行ったり来たり、声を届けれらたりする。自分の心もブロック塀のあの松らしき形をした穴のようでありたい。見えて乗り越えてもこれるけれど一応塀がある、そんな感じで門の鍵は本当に本当に悲しい時と本当に本当に嬉しい時しかかけないことにした。そう決めたのも、書くことを自分の中で許してこれたこと。実現したことにより自信がついたんだと思いました。

もう時間感覚とかがないので、規則ってなんの規則かわからないです。でも私の好きな大作家さん五木先生は夜中にカツ丼を食べ、1日に5冊10冊だか本に目を通し、ぽかんとするときタバコを吸う具合が悪くなっても自分の体の声を聞く。足をよく洗う。。などそんな安心するエッセイを読むとホッとするので、そんなものも書けたらな、、なんて思うけれど、優しさを持って書くということはとてもむづかしいことだと思いました。

結局、自分が一番欲しいものって、自分ではないのかなと思ってきました。あれ、確実な答えがないまま書くなんて自分らしいと、思います。

今日は終わり。新成人の方 たいへんな中ですが おめでとう。


ヘッダ画像は私の好きな絵 ウィキペディアより

ジョルジュ ド ラトゥール 聖ヨセフ



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