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『ヨハネの黙示録』補足:黙示・預言の集大成として

黙示録は、手紙としてというよりも、まず、「黙示」であり「預言」であることが記されている。そのことについては、以下でも簡単に触れている。
『ヨハネの黙示録』現時点での私の訴求ポイント:黙示録という書物について(https://note.com/lion_lamb/n/naba5f90c0e26


<黙示>

繰り返しになるが、黙示録は、その冒頭に明記されている通り、イエス・キリストによる「黙示」として提示されている。黙示とは、啓示とも訳出されることば(アポカリュプシス)で、隠されていたことが明らかにされること、神が特別に明らかにされなければ分からない世界の現実や展望をいう。

黙示は、旧約聖書(預言書、特にイザヤ、エゼキエル、ダニエル、ゼカリヤ等)の一部に認められる。特に、ダニエル書の終わりには、終わりの時まで秘密にされ、封印された言葉への言及がある(ダニエル12:4, 9; also 8:26)。封印された書物の記載はイザヤ8:16; 29:11にも認められる。また、終末をもたらす(ないし明らかにする)「人の子」のような存在も、エゼキエル書やダニエル書に登場する。

捕囚から帰還したイスラエルの民は、神殿再建を果たしたものの、国の再興はかなわぬまま。バビロンに続いて、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった大国の支配に長らく苦難を強いられていた。紀元前後のユダヤーキリスト教世界では、(一部で)誰がいつどのように裁きと救済をもたらすのか、終末への待望が高まり、黙示に纏わる様々な文献が流布していた。(すべての人々ではない! 時の権力・権威に迎合しうまくやっていた人たち、現状維持に安住し、変革を望まない人たちは、それなりにいたのは確か。それは、例えば、福音書で描かれる指導者たちにも見られる。その割合は、今となっては、残された文献からしか読みとることはできないので、何とも言い難いところではある。そもそも、人心なんてコロコロ移ろうものだし・・・ 私自身がそう >< )

黙示録においては、黙示の鍵を握るのが、イエス・キリスト(1:1)! 
イエス・キリストこそ、神の啓示を明らかにすると同時に、神の言葉と並ぶ啓示の内容そのもの(1:1-2)。(媒体としての天使の介在も、この書の構成を示唆する。) 同時に、イエス・キリストは、ダニエル書に登場する「人の子」のように描かれ(1:12-16//ダニエル10:5-6)、終わりの日の幻を明らかにする者として描かれている。(封印された巻物を開くことができる唯一の存在として、5章に登場する。ただし、その姿は、屠られたような小羊としてである! そして、巻物に纏わる現実、そしてその内容が、続く幻を通してーー天使によってーー明らかにされていく。) 

<預言>

黙示録には、このイエス・キリストの黙示の幻に、神様の預言、つまり時に戒め、警告であり、時に励まし、慰めとなるメッセージ神様の言葉が織り交ぜられている。そして、黙示録全体として、預言の言葉として与えられている(1:3; 22:7, 10, 18-19)。特に関係が認められるのが、封印された巻物・書物、また終末の裁きや救い、新天新地について記されたイザヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書であり、それらへの言及が随所に認められる。

さらに言うと、黙示録は、イエス・キリストの到来(贖いの死と復活)によって成就した数々の預言を、御霊にあって受けた壮大な幻を通して(1:10; 4:2; 17:3; 21:10)、再構築、集大成した書物と言える。従って、締め括りに即して、追加や削除に関して、厳しい警告が与えられている(22:18; cf. 申命記4:2; 13:1 ; 箴言30:6)。

この黙示録への追加、からの削除が厳しく禁じられていることを鑑みると、特定箇所を文脈から取り出して、他の文書(のこれまた特定箇所、しかも文脈を逸脱したもの!?)と組み合わせて理解しようとする試みは危惧される。それは、本来、その箇所を通して語られるべきメッセージ、チャレンジ、励まし、慰めを軽んじることとなっていないか、改めて全体として耳を傾けて聞くことが求められる!

教会は、この預言の成就に即し、来るべき終末の完成に向けて、著者ヨハネとともに、御霊によって、イエス・キリストを待ち望み(22:7, 12, 20; cf. 1:3; 3:11)かつ、迎える(22:16, 20)。そのことが、今のまことの神礼拝に繋がり(22:9; cf. 19:10; 4-5章)、そこで神の言葉に聴き、証ししつつ、まことの勝利を得るよう招かれる。


【以下、聖書と神学についての徒然なる余談】

組織神学では、既存の思考パターンに見合った(と思われる)聖句を、ある意味では、文脈を無視して、補足・補強するために抽出しているように見受けられる。文脈からの乖離、とまではいかないにしても、本来の文脈に込められた意味や発展的な流れが、どうしても切り捨てられることもままある。

いわゆる「文学的批評」は、聖書のそれぞれの文書の構成や鍵となる語句・表現を鑑みて、その文書特有の神学を汲み出し、理解しようとするもの。そして、聖書神学は、そういった取り組みをもとに、(組織神学のパターンに必ずしも当てはまらない)聖書そのものから浮かび上がるパターンに焦点を当て、(時に個々の文書に固有の)色彩豊かなメッセージに聴こうとする取り組みである。(と、私は理解している。)

といっても、そもそも特定の文書が聖書正典として認められるか否かは、信仰/神学的基準、また、教父らによる文書の引用・言及の多さも、文書の「使徒性」とともに(時には、それよりも?)大きな要因であったとされる。(例えば、ヘブライ人への手紙など。) つまり、ある意味では、正典は、聖書の文書によらず、教会に受け継がれた信仰/神学パターンによる!? もちろん、現在の組織神学のような、体系的で膨大な神学大全ではないにせよ。いずれにせよ❢ イエス・キリストの御霊、聖霊が教会に働いてのこと(というと、諦め、逃げという声が聞こえそうな・・・)。

ちなみに、そんな組織神学の聖書引用パターンがあって、XX主義における聖句の利用(誤用!?)が生じたのかな、とも思ったり・・・(そうじゃなかったら、ごめんなさい!!)

≪追加メモ≫
*2022/6/7 画像を追加(こちら↓からです。著作権に問題があれば、お知らせください!)
https://manuscripts.csntm.org/manuscript/View/GA_P24

黙示録5:5-8(小羊が巻物を受け取る場面!)の4世紀頃のパピルス写本、らしい。私にはとても判読できません >< 

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