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I. 『ヨハネの黙示録』の全体像(1)枠組(1章・22章):どのような書物なのか? ~ 黙示・預言・手紙として記された書物

黙示録には、色んな数字が出てきますし、日常ではお目にかかれない(どちらかといえば、かかりたくないような)生き物がわんさか登場します。そして、次々と描かれる出来事は、かなり恐ろしい・・・現実には起こりえないでしょと思われる描写が続きます。(だからこそ、かえって惹きつけられる人もいるようで、知ってか知らずか、妙な方向に持っていかれることもままあった書物です。)といっても、3年前の今頃は、ありえないと思ったことが実際にあったんだと・・・どれほどの人が覚えているか? と思うと、あながち、なしと断定できるものではないでしょう。

そんな摩訶不思議な黙示録ですが、どんな類の書物なのかという前提が分かると、さほど驚くべき描写ではなくなるかもしれません。

黙示録の前提は、書物の枠である最初(1章)と最後(22章)にはっきりと提示されています。そこから、黙示録をどのように読み、聴き、受けとめるべきかも分かるでしょう。

イエス・キリストの黙示。

ヨハネの黙示録1:1

で始まる黙示録は、そのとおり黙示である(1:1)、とともに、預言であり(1:3; 22:7, 10, 18-19)、また、手紙として(1:4, 11; 22:16; cf. 2-3章)記されています。

黙示・預言・手紙であるという点について、それぞれ触れるべきことはたくさんありますが、以下に、極々簡単に記していますので、ご参照ください。

  • 黙示・預言として:

イエス・キリストによって、神(天)の視点から見た人々(地)の現実、隠されていた世界のあり様が明らかにされる。神が預言者たちを通して語られてきたメッセージの集大成、預言のクライマックスが、幻をとおして記されている。それが黙示録です。

  • 手紙として:

そんな預言を秘めた黙示、ないし黙示の幻に込められた預言のメッセージは、手紙というかたちで宛てられています。つまり、黙示録は、誰彼ともなく宛てられた抽象的な文書ではなく、(直接的には)今の私たちに宛てられた謎の文書でもなく、2世紀頃の小アジアにあった諸教会、著者ヨハネと苦難をともにした仲間たちという、具体的な文脈の中に生きた人々に宛てて記された文書なのです。

先に記すように、その手紙に世々を超える普遍的なメッセージが託されているのですが、その主旨は、数千年後の出来事といった将来の謎解きではなく、日々の奨励――今の私たちにも語られている奨励――です。

黙示録のメッセージが日々の奨励――なんてというと、摩訶不思議な描写に魅了され、その解読に心奪われる(またそこに特別な位置づけ、知恵や力を訴求する)人々は、がっかりかもしれませんが・・・ その奨励をしっかりと受けとめて、いかなることが起ころうとも、耳を傾けるべき預言のメッセージ、見極めるべき”現実”、すべての源である神、主を仰いでいたいと願い祈ります。

ここまでの単純な図解がこちら(↓)。って、図解にするほどのものではありませんが・・・ 改めて。

続いて、1章・22章で提示される黙示・預言・手紙の内容を記していきます!

【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。

  • トップ画像について補足します。私自身、黙示録がヘブライ語ないしアラム語で記されたとは思っていません。著者ヨハネも、黙示録を宛てられた小アジアの教会の人々も、日常で使用する言葉はギリシャ語だったでしょうし、黙示録もギリシャ語で記されたものと思っています。黙示録に出てくる巻物(5章)については、ギリシャ語ではないかもしれませんが・・・ 

  • 黙示録のメッセージが日々の奨励だからと言って、私自身、来るべき「終わりの日」がないと思っているのではありません。先の投稿で記しておりますが、その日は来るべき時に必ず来る――神様が、この世界をすべて見定められ、もう十分!とされる日が来る、神様がその聖、善、栄光をもってこの世界を新しくされる日が来る、天が地に完全に成就する時が来ると信じています。今は、救いの日、また招きであり備えの日なのです!

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