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向き合わないことについて


文章を書くのが好きだ。小学生の頃から、同級生が読書感想文の宿題に対して露骨な嫌悪感を示していたのを尻目に、僕はそれを苦痛に感じず、実際、宿題を短い時間で片付けることができた。

高校1年生のときの現代文の期末試験だったと思う。試験の最終設問に、詳しいお題は忘れたが、たぶん「真摯でない人について書け」みたいなものだったのではないかと思う。それに対して、当時非常に自意識を感じていた僕はそれを僕自身のことと考え、「書籍をはじめ様々な情報源から得た発想を、自分の意見として他人に吹聴する人」と書いた。設問は覚えていないが自分で書いた答えを一言一句はっきり憶えている。そして、その解答は模範解答集に記載されたから、先生の何かしらの感情に訴えるものがある解答だったかもしれない。

イチローは本を読まない、というのをどこかで読んだことがある。他人の考えをインプットすると、自分の頭で考えることをしなくなるからだという。自分でオリジナルに考えられる彼のような人を除いて、僕のような凡人は読んだ方がいいと思うが、使いようには要注意。

ずっと、受け売りで話をしてきたような感覚がある。それは確かに自分の言葉には違いないのだが、そうして形成された言葉は、書き言葉にしろ話し言葉にしろ、薄い。これまでの人生を通じて得た大量のインプットから作った自分のボキャブラリーから、適切な言葉を最適化して喋る。ただし、それは悩み抜いて作られた言葉ではないからどこか空々しく、寒々しい。自分の考えを人に喋って、あまり批判されたことがない。その年でそこまで考えてるのはすごいね〜。やっぱ頭良いんだね〜。褒められて伸びるタイプで比較的自己批判もできるので、人に褒められると素直に嬉しいし、他人から(建設的な)批判を得られなくても自己内で生じるアウフヘーベンによりブラッシュアップすることはある程度はできると思っている。いるが、自分の発想は自分のボキャブラリーの範囲内でしか生まれないので、他人からの視点を著しく欠いていると、自分では絶対的に正しいと信じていて疑いの余地がなかった前提が、実はおかしい、なんてことが平気で生じる。誰かとの対話の中で、彼にとっての当たり前が自分にとっての画期だったということも何度もある。そして、僕が語る言葉は自分を十分苦しめて語った言葉ではないから、それに対する指摘が来ると、実際弱い。相当弱い。あまり来た経験がないから、怖い。

完全にオリジナルなものはないという。新しく生み出したと思い込んでいる発想でも、実は自分の過去のインプットに着想を得ている部分が大なり小なり確実に存在するからだ。それでも、僕のアウトプットは真摯ではなかった。

とても近い友だちの1人に、自分の内の曖昧模糊とした感情をうまく言語化できずにずっと苦しんできた人物がいる。一方で、僕の場合はそれっぽい言葉にできてしまうからこその苦しみ。苦しみというほどではないまでにしても、引っかかり、罪悪感を抱えながら21歳まで生きてきたような気がする。少し辛くなると、自分をゲームの主人公として捉え始め、自分の根源を俯瞰した存在とし、実世界に生きる自分を他者とみなす癖がある。大学受験の時も自分のレベルアップのような感覚で取り組んでいたし、ある種現在でも自分をRPGの主人公と同一視しているきらいがある。自分の脳と上手く付き合っている方かもしれない。悩みをもつ友達にその思考法を伝授すると、自分はそんなに器用には生きられないと言われたことがある。彼の気持ちも非常にわかる。この思考法はライフハック的にはナイスアイデアで、人生を消化試合として捉える人には便利だけれど、自分の人生を真摯に生きようと決意している者に対しては悪魔の囁きかもしれない。彼がこの発想を拒絶してくれたことになぜか安堵した。

僕は決して頭が良い人間ではないし、人より多くを考えているわけでもない。ただ、そうした人に擬態するのがうまいだけだ。いや、擬態しているつもりもなかったけれど、「何かしらの答えを出してくれる」と言ってくれる友だちの存在をありがたく感じつつ、申し訳なく感じている自分がどこかにいる。そうではないんだよ、と説明したが、どうにも伝わりにくいので書き起こした。

苦しみながらも自分の言葉を絞り出すことに拘る親友や、経済的な安定とは別に自分自身を定義し直して新たな道を歩み出した師匠ら、人生を真摯に生きる彼らを誇りに思うし、憧れを感じてしまう自分がいる。

僕の誕生日は宮澤賢治の命日と同じ日だ。幼少期から彼の作品を愛し、訪れたことのないイーハトーブに郷愁を感じ、心理的な密接を感じていた。だが、どうやら僕は賢治になれそうにもない。

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