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#12 第2段階【自分の感情を受け入れる2】

十一月二十九日。
雪が積もった。

この間まで暖かいと思ってたけど、急に寒くなった。
買い物が出来るコンビニまで歩いて四十五分の環境。
車が無いので雪が積もったとたんに行動範囲がガクンと減った感覚になった。
というかほぼ動けない。歩いていくしかない。

選択肢がないと、けっこうやる気になるもんで、雪を漕いでの片道は歩いて一時間を超えた。

日によっては氷点下十二℃にもなった。
想像するとひぇ~~どうやって過ごすの?となるけれど、その場になればなんとまあそれなりに過ごせるもの。

あったものが無くなるかもしれないという状況の時が一番怖い。

無くなってみれば案外なんとでもなるもので、あれ?無くてもよかったんだ・・と気づけたりする。

あの恐怖は一体なんだったんだ、あんなに怖がってたのに・・・。

こういう一つ一つのことは経験しなければわからない。

経験を積むからこそブレなくなっていく。
この一歩一歩が確実に身になっているものだ。



自我の心は「あれはどうしよう」「こうなったらどうしよう」と考える。

何気ないふとした瞬間にも「あれは大丈夫?」「これをしておかないと大変なことになるんじゃない?」と囁いてくるのだ。

それに釣られて考え始めるとすぐに不安がやってくる。心配がやってくる。
考えれば考えるほど不安は濃くなる。心配は深くなる。


今を受け入れるとは、考えないことだというので、「考えない」を実践!

自我の囁きをいかにスルーするか。いかに無視するか。つい考えていたことに気づいて素早くスルーする。

自我の執拗さ、巧妙さったらすごい。

それでも「考えない」に取り組み続けた。



こちらに越して以来、天気がいい日は朝の散歩をしていた。

川も近く、サギの親子、トンビ、鴨、種類のわからない野鳥をたくさん見かける。

冬になり白鳥も多く飛んでいたり田んぼや川にいたりして、美しいその姿は見飽きることがなかった。

朝日はとても美しく、遮るものがほどんどない空の色を楽しむのは瞑想にも近い感覚だった。



ある日、学んだことをハートで繰り返しながら歩いていた。

わたしは存在しない。

すべてと一体。

愛の中にいる。

愛に包まれている。


すると、ふ~っと背中から何かが外へ出た感覚があった。
その瞬間身体は軽くなり、視界がワントーン明るく軽やかになった。


ん??

となりもう一度繰り返してみた。

一回目ほどじゃないけれどまた同じような感覚になった。


わ~~~

二度目の目覚めの体験だった。



この出来事はこの時起こることがすでに計画されていたこと。
思考することも判断することも、気づくことも。
すべて計画され、完璧なタイミングでただ起こる。

何を考えても、どんな感情になっても、それも計画通り。
だから罪悪感を感じることもないし、苦しまなくていい。


その思考、感情に気づくことで不要になったもの、手放していい観念を手放していくことができるのだ。

目覚めや悟りと言われることも、いつそれが起こるかがすでに計画されているという。

早くもできないし遅くもできない。

それは今世なのか次の世なのかわからない。

いつかということは知ることはできない。


何度か聞いてきたことが、少しずつ染み渡ってきたような感覚だ。

はっきりとクリアに掴めたわけではないけれど、なんとなく感覚的にそのエッセンスに触れたような気がした。




九月末に友人から「早めに次に住む場所を見つけてね。」という条件で引っ越してきてからもう十二月。

何度か「次の場所見つかった?」と聞かれる度にざわつく心。

「どうしよう、どうなるだろう。」がまたすぐやってくる。

猫たちを手放そうと決めた直後、友人が一頭引き取ってくれて以来、引き取り手は現れていなかった。


すべて決まってることだから、起きることは起きるだけだから・・・と自分をなだめる。



相手の行動にざわつくのは、分離し自分とは違う存在の人がいると思っているから。

そしてその相手がいると思っているということは、同じく自分という独立した個人がいると思っているから。


ラメッシ・バルセカールの「意識は語る」や「誰がかまうもんか?!」を読む中で、ここがまだ腑に落ちてないと感じた。


本当の自分は大いなる意識そのもの。

だからこの肉体・思考・感情・感覚を持った私は偽物の私であって私ではない。

大いなる意識であるのはみんなそう。

相手も動物も植物も。

だから相手もないということ。


自分以外の人の行動にイライラしたり、ムカついたりするのは、その人と自分は違うと思っているからなんだ。


そうは言ったって違うもん、と思ってしまう。

イライラ・ムカムカの感情が先に出てしまう。

そんなイライラ・ムカムカさせてくる相手と自分が同じだなんて思いたくもない、そう瞬時に反応してしまう。


イライラ・ムカムカした現象はただ起きただけ。
私の中の信念が刺激され、イライラ・ムカムカしただけ。

イライラ・ムカムカを受け入れる。
そういう感情になった自分を受け入れる。

うおーーー

頑張った。

いつもそうだけど、いらない信念を手放すため、実践、実践、実践。

エイブラハムは”頑張らないでその過程を楽しんで”と言うけれど、私の感覚ではもうずっと頑張ってる。

頑張らないと、感情に引きずられてしまうのだ。


立ち止まって感情を見る。

するとがっかりする。

自分を責めたくなる。

まだそこにいるの?まだそう思ってるの?


そうじゃない。責めなくていい。

目の前を見ればミリ単位だけど一歩一歩進んでる。少しずつうまくなっているから。

昨日より上手。一昨日より上手。

一週間前よりかなり上手!

感情を見れるようになってるじゃん。


その感情を持った自分を抱き締める。

その感情を受け入れる。

しっかり受け入れる。


疲れる。

疲れるよー。

そう言ってもいい。

疲れたね、ちょっと休も。

ご褒美シュークリーム食べよ。



ラメッシによると、

肉体の自分にフォーカスすると怖さ、心配、不安になるという。

全体性を見るとそういうものはない。ただ観照する。すべてを観照する。ということ。


観照???

言葉に捉われる私はこの意味がわからない。ただ観るってことだってことにしておこう。


完全を求めることは根本的な第一の愚かさだそうだし☆



変化は起きる。

幸福でもみじめさでも、ただ起きてそして過ぎ去っていく。

気づきも過ぎ去り別の気づきが来る。


断片断片を見るのは個人的観点で、それは感情を引き起こすのだろう。

全体性を見るのは非個人的観点で、いちいち振り回されない。


一見良くないと思えたことが実はその後良い展開に発展していったり、逆に良いと思えたことに裏切られる羽目となったりする。


振り返って自分の人生を観てみれば、そういうことのオンパレードだ。

#13 第2段階【本当の自分と向き合う】へ続く


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