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#13 第2段階【本当の自分と向き合う】

あるとき
「それだったら、うちに来てもいいよ。」
そう言ってくれる友人がいた。ただし猫はアレルギーがあるから難しいと。


お金があれば何も困らない。
お風呂にも行ける。
買い物にも行ける。
猫らを短期間で引き取ってもらえるかもしれない。
引っ越しの際も引っ越し業者を頼める。
洗濯もできる。灯油も買える。
今の社会ではお金がなければそれらは全部出来ない。


頑張っている。
新しい信念に書き換えながら。
真実を得ながら。


気分はとてもいい。
エイブラハムを実践していたときよりもかなりいい。
ネガティブな方向の思考はだいぶ無くなった。

起きることをただ観るということを意識することで、未来や過去へ意識が飛んで、心配したり後悔することなどがだいぶ少なくなった。

たとえ心配や後悔をしても気づいたら、ただ起きているんだ、すべては完璧なタイミングで起きるんだということを思い出せばいい。


気分的には高い波動でいる時間が多くなったように思うけれど、

必要なお金は手にしていない。
実際の生活に必要なことが出来ない。

そう思っていた。

得られないとなると、俄然「どうしよう。」がやってくる。


もうやだ!寒い!お金ない!いつまで?
めっちゃ頑張ってきたじゃん!なにさっ!
もう疲れたーーー


時にこうしてめちゃめちゃ自我の心にまみれるのも良しとした。
みじめさを感じる。
感じている自分を受け入れ許す。


ラメッシは言う。

”行為が起きるために、肉体精神機構がある与えられた特徴をもって生み出された”


”あなたはこの夢の中の演劇の中で、ある役割を与えられた。あなたはその役割を、結果への不安を持たずに演じなければならない。
あなたにできることは自分の役割を能力の限りを尽くしてやることだけで、結果はあなたの手中にはない。”

”幸福なエンジニアであったあなたを、このみじめな探求者にしたのは何だったのか。もし何かのパワーがあなたを探求者に変えたのなら、あなたが連れて行かれることになっているところへあなたを連れて行くのは、そのパワーの責任だとは思いませんか?”


”私たちは皆、全体性が機能するための道具。全体性が機能するための道具だという確信があるときそこに他者はいません。
すべては全体性が機能するための対象物。他者がいないとき怖れがなく、怖れがないとき自由があります。”


このラメッシの言葉にものすごく励まされた。立ち上がる力になった。



私たちは友人にとてもたくさん助けてもらって支えてもらっていた。
お金をくれる人もいたし、貸してくれる人もいた。
私たちは私たちで、欲しいと思って手にしてきたもので、もう要らないと思えたものをどんどん手放していった。


家が広くなると知らぬ間に物が増える。
家電も増えたし趣味のものも増えた。
保護猫を引き取ったり保護したりするうちに、猫グッズもものすごく増えた。
仙台から越してきた時はとても身軽だったのに、とても重い状態になっていた。

それらを少しずつ整理していった。

お金が無くならなければこういう整理をしようとも思わなかっただろう。

荷物が多くなれば動くのも億劫になる。


大好きだった着物もすべて手放した。

着物が大好きで、一人で着れるよう着付けも習った。今では手に入れるのが困難になった職人さんの銘入りの着物や帯もあった。
着るのも見るのも大好き。小物合わせを選ぶのも大好き。
着ると気分がスッとなる。

だけど着る機会がない。なんとか着付けを忘れないよう最低でも年に一度は着るようにしていたけれど、ほぼ着ない。

思いきって決断した。
今後着物を着たいときは、信頼のおけるところでレンタルすればいい。きっとステキなコーディネートをしてくれる。


Linpも大切にコレクションしていたボードゲームを大分手放した。


本当に本当に気に入っているものだけを残す。
私たちは結婚指輪と婚約指輪も手放すことに決めた。



引っ越し先は新たな友人のおかげで今のところ仮では決まったものの、半月という短い期間のうちに飼っている猫十二頭の里親さんを見つけなければならない。

程なくして、十二月半ばに二頭、さらに年末に一頭引き取られていった。
それぞれ、猫に愛情を持った素敵な夫婦や家族の方々だった。

とてもありがたかった。


これも私たちが探した出したのではなく、相手から連絡があって決まったことだ。

これまで学び実践してきたことの結果を表しているかのようだった。

それはつまり、問題の解決にフォーカスせずにただいい気分ですべてを任せるというものだ。


残り九頭。




「ラマナ・マハルシの伝記 賢者の軌跡」に”真我探求”という言葉がある。


思考や感情を見たら、
「それを考えているのは誰か?」

「それを感じているのは誰か?」

と聞く。


するとマインドから「私だ。」という応えが湧く。そうしたら次にこう聞く。

「その私とは誰か?」


やってみると、「私とは誰?」と聞いた瞬間、それまでうるさかった思考がピタッと止む。そして静かになる。

思考の狭間に気づくことができる。


考えないと思っても、考えないことを考えているけれど、この真我探求は、本当に思考が止まる。

しばらくすると思考が湧いてくるけれど、同じ質問をするとまた止まる。

そこで瞑想にこの真我探求への質問を取り入れることにした。



Linpが真我探求についてのシェアをしてくれた。

それは真我(本当の私)と自我(偽りの自己)の関係を水に例えたお話だった。


「本当の私は空気中に含まれた水分子のようなものだよ。
それは目には見えず広大な空間に広がっている。

つまり全体性だったりワンネス、そして愛や神の表れを意味しているんだ。


そこから温度(波動)が下がることで雲、つまり水蒸気になる。
この状態は全体性から分離が始まりだした状態。

つまり目に見える形で物質化し出したということ。

人間であれば波動が高く肉体を持ちながらも自由で解放されていることを意味してるね。

物質世界の様々な観念を手放して本当の私と融合している感じ。

いわゆる悟りが起こった状態だね。


そこからさらに温度(波動)が下がると、雲から雨になる。
ここではっきりと目で確認できる状態になる。

そして雨はもちろん雲よりも物質化しているので地上の影響を受けやすくなるよね。
そして形を持ち出すことで元々あった自由が制限され出す。

これがいわゆる肉体を持った誕生の始まりってこと。


雨は液体であるがゆえに個体である氷よりはある程度の自由はまだ持っているよ。

そして、人間には様々な個性があるように雨という水は地上に自身を表現する色という個性を持って降り立つ。

その象徴である赤ちゃんはそれぞれの個性がありながらも、まだ観念を持っていないため世界に対してまだ投影するものが一切ない。

だから大人に比べれば悩みや問題もなく制限もそれほど多くはない。

だけどこの世界に依存しなければ生きていくことはできない。


時が経つにつれて両親からの愛情を受けながらも社会に広まっている常識という観念を吸収していく。
それが生きるということでこの世界ではそれが共通認識になっている。

そして水を象徴した赤ちゃんは様々な形だったり染まる色という概念、信念をますます手に入れる。

そうしてこの物質世界に適応し、従順になることが人生をより良く生きることの唯一の信念になる。

それは同時に自身の波動を下げる結果となる。
しかし、それがこの世界を経験するためには必要不可欠なことでもあるんだ。


いつしか、赤ちゃんは大人へと成長し、水も外の世界の様々な影響によって濁り出してくる。

本来元々あった自由と引き換えに、欠乏の観念を信じることでこの物質世界をより豊かに経験することができるんだ。

しかしそれは当然諸刃の剣で、コントロールし獲得する喜びといった感情とは反対の望まない経験から得られるネガティブな感情も味わう羽目になる。


なぜなら、本当の私という全体性は全体であるがゆえにネガティブも含んだすべてを内包している。

そこに善悪はない。そしてこの物質世界では全体性というワンネスから切り離されているために同時にそれを経験することはできない。

分離した二元の世界では時間と空間という制限からどちらか一方しかまず経験できないってこと。


これには当然、肉体を持つ制限された人間にはその視野の狭さからそれは受け入れがたい経験であると認識してしまう。

こういったことから人生には様々なコントラストが起こり、それらすべてを経験したいのが本当の私であるということを受け入れることができないために、人はこれに一生懸命に抵抗し、自身の経験をコントロールしてポジティブなことだけを引き寄せようとすることが苦しみの原因でもあるんだ。


だって、そこには絶対的な宇宙の法則が流れているのだから。

すべてを経験したいという本当の私からくる切なる願いが。

だけど、これらに対し反抗すべき観念が世の中にはたくさん蔓延してるよね。


世の中の大半の人は自身が濁りきった水であることを知らずに内側に溜め込んだ不純物である観念を世界に投影して苦しんでいる。

それは盛大な自作自演であるけれども本人は気付くことはできない。

だってそれがこの世界の常識だし正義だから。

このことに振り回されている人たちの中には、自分というものが完全に他のものから分離し、独立しているという孤立感や罪悪感に苛まれている。

そういった人々はもはや水という液体から氷という個体の状態へと波動を下げ続けていることにも気付いていない。

ますます自身に制限を加えているということに。


自身が生み出した問題に対して、それを回避するという行為は結果的にのちにやってくることになる問題を大きなものへと成長させてしまうということになる。

その問題は実は回避や修復するべきものではなくただありのままに観て受け入れることしかできない。

自由で愛そのものである本当の私が経験したいという願いを肉体を持った私が受け入れた時、その愛はまさに太陽のごとく、自身を暖かく包み込む。

その愛の表現である太陽の暖かさは冷えて凍りついた自身を溶かし、その流れ出た不純物である不要となった観念を照らし出してくれる光それ自体も実は太陽の違う側面の働きなんだ。


それに気付き受け入れるまでは、人は自身が取り入れた様々な観念という不純物を世界に影として投影し続ける。

そしてその影があたかも外から現れたと勘違いして、その戦いに挑み続けるという愚かな行為は永遠に続く。


自身がその原因になっていることに気付かずにね。

さらにその迷える行動を伝えるために、照らし出しているのが自身の背後にいつも輝いている太陽だとも知らずに。


本当の私はいつでもそれに気付いてもらえるように、物質的肉体に同一化して本来の姿を忘れた人々にすでにいらなくなった観念を教えてくれているんだよ。

それが人間には痛みとして感じられるんだ。

抵抗すればするほど影はどんどんと大きくなって痛みはますます大きくなる。

影が大きくなる原因は、影が気になって影をなんとかしようとするから。

影の方向を向いて追いかけるからなんだ。


本当に見るべき方向は真逆の太陽だ。

太陽である本当の私に向き合うことでしかそれは解決しない。

太陽を真正面に見据え太陽に近づこうと歩みを進めることでしか影は小さくならない。


凍りついた体はそのとき溶け始めるんだ。
それは分離から統合への道だ。
元いた場所に帰るのが僕たちの旅のゴールなんだ。

でもそれに気づくには一度遠くへと旅するしかない。
世界を探求し周り、沢山の経験をし傷付き、疲れ果てあらゆる人の痛みを知ったときその鐘は鳴る。


それは本当の私からの合図であり、目覚めのサインだ。
そこから来たのだから、帰る場所も同じなんだよ。
ホームである本当の私がそれを望んでいるんだ。


もう帰っておいでって。


これが真に受け入れられたとき、水は太陽の熱である愛そのものによって蒸発する。


自身が消え去るんだ。
この自身とは自我やエゴの囚われを意味している。

肉体が私であることを長く信じてきたけれども、それは仮の姿であったと。
この肉体は物質世界を経験するためだけの乗り物であったと。

私の本来の姿は制限のない自由な水分子、全体性の一部、それはまさに神の子であったという気付き。


師から最初に教わった太陽と影の 話は、こんなに深かったってことだね。


自分がこの肉体だと信じていたときには、太陽に向かうことはただ単に好きなことをしたり、居心地の良い人といることだ額面通りに受け取っていたよ。

この物質世界の人生をより良く生きることをただ示していると思っていたんだ。

師が最初から伝えていた”真実の自己を知ること”の本当の意味を知ることこそが大切だったんだね。


それに気付くまでに、師の元を離れてから十年という月日がかかったけれどもそれも決して無駄な経験ではないんだ。

それも大きな愛。本当の私が十分にそのことに気付けるようにと師という人物として、目に見える形として現れていたのも、また様々な困難や窮地を与えてくれたのも全部、本当の私から送られていた愛の一つの表現だった。

道に迷いながら遠くまで旅をさせてくれたのも、そしてその間片時も離れることなく寄り添っていてくれたのは本当の私だった。

そこにははじめから愛しかなかったってことだね。」




ふ~~ん。

論理的な説明が得意なLinpはいつもこうしてたくさん説明してくれるけれど、
感覚的な私の頭は理解できず、多くの言葉に頭がわんわんする。


そんな中でもひとつ、

不純物である観念を外していけば影は無くなるから問題に感じなくなる。

さらには波動が上がっていけば観念も自然に外れ、本当の自分を見つけることができるんだ。

と受け取った。



真我探求を始めて五日目。

それまで真我は宇宙(ソース:大いなる意識)にあるとイメージしてた。

自分の外にあるイメージ。

でも今日「真我を探すのに自分の中に入っていくのだ。」という文章を何度目かに目にし、自分の中で???となった。


自分の中を見る。

すぐには真我は見つからないので、自分ではないものを見つけ、それをただ見る。消えていくのを見ているのだそう。

なるほど、やってみよう!


思考も感情も感覚も、本当の私ではない。湧いてきて消えていくもの。過ぎ去っていくものだ。



ラマナ・マハルシの伝える教えで真我を見出したムージの言葉。

「思考・感情が来たらそれを避けようとせず体でしっかり味わう。ただしそれと同一化しない。

ただ消えていくのを見ている。すでにゼロにいる。目覚めるために、ゼロに行くために、できることは何もない。

すでにそこにいるのだから」



二〇二〇年が終わろうとしている。

#14 第3段階【統合1】へ続く


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