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#2 【暗闇の中で】

私ってなんだろう?

自分の手をつねったら痛い。。。

でもあの子が手をつねられてるのを見ても痛くない。。。

私にだけ感じる感覚。。。

痛い、いやだ、恥ずかしい、

こう感じる私ってなんだろう?

私って わたしって・・・だれ?

私ってなに?


夕日に照らされた縁石に座って、唯一気を許せるともだちを待ちながら

なんとなく考えていた。

グラグラしてきてクラクラしてきて気が変になりそう!

怖くなって頭を振った。


ランドセルが肩に重い。

私だけみんなとうまくいかない。

なんでだろう。

何が違うんだろう。

あーちゃん、早く来ないかな・・・



高校から理系に進んだ私は、理系の大学に進学した。

本当は看護大学に進みたい気持ちもあったけれど、周囲の大反対に流され工学部へ行った。

やっぱり周りとうまく付き合えない。


「Ruruの話し方、甘えてるっ。」


宝塚の人みたいな美人でサバサバした友人にそう言われ、どう話したらいいのかわからなくなった。

声の出し方がわからない。


授業の問題も、一人で考える。

周りはみんなでいろいろ話してる。

一人で考えたい。私には解けるはず。

結果は△。

何が正解だったのかみんなに聞くこともできない。


大学二年の秋、私は急性大腸炎になって下血を繰り返した。

勉強も手につかない。苦しくて逃げ出してし、大学を中退した。


そして親の言うままコンピューター専門学校へ入った。取れる資格は取りまくった。それが私のプライドだった。


専門学校を卒業し、システムエンジニアとしてとある企業に就職した。

仙台でのひとり暮らしが始まった。



就職の時、親からこう言われた。

「一度辞めた人間は辞め癖が付くもんだ。会社は辞めたらだめだ。」

そうだ、辞めないようにちゃんと頑張ろう。



職場はほぼ男性。配属先のチームでは女性は私一人だった。

もっとも厳しいと言われていた医療システムを希望した。

単純に病院が好きだったので、病院で仕事ができるなら大変でも頑張れると思ったのだ。


仕事は確かに激務と言ってもいいもの。

当時は、朝八時半ごろから午前二時まで仕事というのはザラで時には徹夜もした。

システム導入前などは病院が休みの土日にこそ作業があるので土日もない。

代休を平日に取るようにと言われていたけれど、ほとんどの人がそんな余裕もなかった。

私の部署の人たちがみんなそんな感じだったので、初めて親鳥を見たヒヨコのように、私は疑問に思うこともなくとにかく頑張った。


ある雨の日、黄色い傘をさして歩いていたら、同期入社の女性がこう言った。


「子供みた~い。」


え?そうなの?


彼女はとても綺麗な人で茶系のファッション。

アクセサリーも茶系で浅黒く健康的な彼女にとても良く似合っていた。


子供っぽいのか。。。

パステルカラーが大好きだったけれど、それからシックな色の服や小物を選ぶようになった。


仕事で時間がなく、ゆっくりショッピングも行けないし、たまの休みの日は寝ていたい。

そういう日々を過ごしているうちに、どんな服をどこで買えばいいのかさっぱりわからなくなった。

どんなのが着たいのかもわからない。流行もわからない。

いつしか残業代で増えた収入でブランド品を買うようになった。

ブランド物なら変な見た目にならないよね?

私は人の目を気にしてばかりで自分というものがなかった。


数年後、看護系のシステムをやらないかと言われ、開発元の社外の人たちに教わりながら一人で担当することになった。

お客様との打ち合わせ、開発元への問い合わせ、システム構築、合わせて看護業務の独学。

看護はやりたい仕事でもあったので、大変ながらも楽しかった。


事件が起きた。

初めて担当した病院の看護部長さんが自殺したのだ。

私が一番よくお話していた方だ。

もっと私がお話を聞いていたらよかった。

次の予定があって切り上げてしまった。

私にできることがなにかあったんじゃないか。

自覚はなかったけれど私は自分を責めていた。


会社の上司は私を心配してくれ、私が大丈夫かどうか周りに聞いてくれていた。

「大丈夫です。」私はそう答えた。

大丈夫。叫んだり泣きわめいたりしてないもの。

自分の本当の心がまったく見えていなかった。



その後ますます忙しくなり、部下もついたりしたけれど、相変わらずコミュニケーションがうまくとれない。。

仕事を振れない。頼めない。頼まれたものは断れない。

気が付くとあれもこれも抱えて、いっぱいいっぱいになっていた。


「早めにアラームあげてね。」

気遣ってくれた上司からはそう言われていたけれど、何をどう言えばいいのかわからなかった。

ある日、大学病院で三件の打ち合わせがあった。

二件目が終わる頃頭痛がし出した。三件目が終わると普通に立って歩くのがしんどいくらい痛みはひどくなっていた。

一度帰宅したものの治まらず、夜中救急車で運ばれた。

(明日から県外の病院へ出張に行かないと。なんとか治さなきゃ)

結局翌日も病院へ行くことになり、出張は別の人に対応してもらうことになった。

看護担当になって四年目。

救急車に運ばれてから四ヶ月ほど経った時、会社に行けなくなった。

吐きそうになる。

そして

「Ruruさん、うつ病崖っぷちですよ。」

そう診療クリニックで診断され、約半年間休職することになった。

やった!休める~~~!

やっとこの激務から解放されると思ったら救われた気がした。



休職が明け、別の部署に配属となった。

まったく経験がない仕事内容だったけれど、会社側がいろいろ考えてくれて、時間と心の余裕ができた。

入社以来初めて定時で帰れたので、習い事をしてみたり、職場以外の情報をいろいろ調べ、セミナーに行ってみたりするようになった。


ある日、会社にとってプラスとなるんじゃないかと思ったことを会社に提案し社内初の広報の役割を担わせてもらった。

一年目は情熱もあり、新聞社の方に怒られることもあったけれど意欲的に頑張った。社内でも最高評価をいただいた。

でも昇格するにはあと二期最高評価を取らなければならないとわかり、プチッと何かが切れた。

あと二期この頑張りを続けるのは無理だ・・・。

一度うつ病崖っぷちを経験したことで、私はもう無理に頑張るのが怖くなっていた。

それから二年目、三年目には、もうどうしていいかわからなくなった。

そしていつしか情熱も失われていった。

これが会社での二度目の挫折となった。


そんな頃、四十歳目前にして未婚だった私にやっと出来たパートナーに、末期癌が見つかった。

会社に相談し、部署を異動させてもらい看病に当たった。

病気発覚からわずか半年で彼は亡くなった。

二〇一〇年八月、東北夏祭りシーズン開幕の日。

病室の外から雀踊りのお囃子が賑やかに響いていた。


#3 第1段階【出会い】へ続く


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