苦しみからの脱却は闇を恐れずに直視することで消えてゆく
あなたの人生が順風満帆で全てがうまくいっているとき、そして欲しいものを手にして人生が楽しいとき「私はすでに満たされていて完全になるために必要なものなんかもうない!!」と信じることはとても簡単なことです。
しかしその後、お金や所有していた物を失ったり、健康を損ねたり、パートナーが去っていったり、スピリチュアルティーチャーがいなくなったり、地位や名声を失ったり、歳を重ね容姿が衰えたり、悟りの体験の記憶が薄れたりして自分を完全にしてくれていると思っていた人物、所有物、体験をあなたは失うことになります。
しばしば私たちは、失うという体験をするまでは探求していることに気付けません。
この失うという体験は、あなたを酷く恐れさせることにもなりうるし、完全であるために必要だと考えていたものは、決して必要なものではなかったと知るとても良い機会にもなりえます。
しかし、あなたはこういった状況を前者とみなし自分の力で何度も乗り越えてきました。
こうしてあなたは「健全な自我」を育てることに成功し、その先にあなたが力尽き降参するまでそれは続くのです。
あらゆる問題に対して新たな視点で見る準備が整うまでそれが真に解決されることはありません。
ここが自力から他力へとシフトするポイントなのです。
自力とは自分の力で自身の苦しみを抜くことを言います。
これは必ず失敗に終わり、問題はさらなる大きさで姿形を変え再登場し続けます。
あなたはこのお先真っ暗な状況を恐れるが故に抵抗し続けます。
恐れを抱く闇に対して逃げ続けたり、立ち向かったりするその無意識の行為自体が闇の存在を証明してしまっているのです。
なぜならそれらがあなたにとって実在していると本気で信じているが故にとっている行動や思考だからです。
あなたが信じているものがこの世界に投影されるのです。
実在しない闇に対してあなたが行うその態度が非実在のものにエネルギーを注ぎ続け、新たな恐れの事象を生み出していることにそろそろ気付くときがやってきました。
恐れという闇は幻想であるため実在していません。
自我(エゴ)を自分の導き手としているときだけ真理は失われ恐れが人生に侵入してきます。
苛立ちや不安、また悲しみや怒りといった心の動揺が沸き起こっているときあなたは間違った教師を選んでいます。
この間違った教師は真理に対して常に盲目で狂信的です。
どちらも真理に暗い自我という教師に導かれるなら、ついて行ったあなたも苦しみの世界へと落ちていくだろうということです。
ちなみに一盲とは、仏法(真理)を曲げて伝える悪知識のことで、その反対は善知識になります。
また衆盲とは信心のない大衆を指し、火坑とは地獄のことを意味します。
自我はあなたをこの宇宙という恐れと苦しみの世界に拘束し続けますが、「真の自己」はあなたがわざわざそういった経験をする必要はないことを知っています。
ですが、私たちは痛い思いを経験しなければなかなか気付くことができません。
一度地獄のような痛烈な痛みや絶望を経験することは絶対的な真理ではないですが多くの人にとっては目醒めへのプロセスとなります。
あなたにとってこの記事を読んでいるという事実がこのプロセスをあなたが必要としているという証しになります。
なぜならあなたが願望し選択したものしかあなたは見ること、また発見することができないからです。
このプロセスを辿らない人は彼ら自身の独自の目醒めのプロセスを経験します。
私たちは内なる完璧な教師により最もふさわしい形で導かれることになるからです。
覚えておくべきことは
「闇を恐れることでその原因は隠蔽され、その結果として闇は実在化され続ける」
ということです。
ここで一つ例を挙げてみますので以下の情景を思い浮かべてみてください。
あなたは真っ暗な夜の道を一人家路へと帰宅する途中です。
もうすぐ家に着くところであなたは前方に何やら白くて透明な物が浮いているのを発見しました。
瞬時にあなたは恐怖に怯え、その場から一目散に逃げ出してしまいました。
あなたの知覚は肉体の目を通してそれが完全に幽霊もしくは正体不明の怪しいものであったことを告げたのです。
あなたの家へはその道を通らなければ帰ることができません。
しかし、あまりの恐ろしさに今夜あなたは家へ帰ることを諦めました。
朝になってあなたは勇気を出しその道へと戻ったところ、あることに気付き大笑いしてしまいます。
昨日見た幽霊らしきものはなんと道の脇の枝に引っ掛かったビニール袋であったのです。
この例に登場している人物をあなたは笑い飛ばすかもしれません。
しかし、いかに馬鹿げているように感じたとしても、私たちは日常生活で全く同じことをしているのです。
恐れの対象はこの世界にいくらでもあるように見えます。
世界で巻き起こる事件や事故、戦争や自然災害、猛威を振るうウイルスや不況の波、個人的な病いや老い、そして究極的には死という最大の恐れ。
これら全ての恐れに対し自らが捏造した幻想であるにもかかわらずビニール袋を幽霊であると信じ込んでいた人物のように私たちは怯えながら苦しんでいるのです。
また先の例にあった「夜道の中で見る」ということが何を意味していたかというと、真理に対して暗い自我の視点で見ることを表しています。
自我は罪悪感をこの世界に投影して見るので、当然あなたの目には恐れの光景が映し出されます。
自我とは狂気の思考体系です。
自我が作り出した罪悪感の象徴である肉体はそれが幻想であるが故に肉体の目にも同じように幻想しか見ることができません。
では次に「朝の光が」何を意味していたかというと、「真の自己」による正気の視点から見ることを表しています。
闇とはただ光の欠如でしかありません。
それは罪が愛の欠如であることと全く一緒です。
真っ暗な部屋であろうと照明のスイッチを付けたなら闇は一瞬で光へと溶け去ってしまうのみです。
闇を象徴する恐れの感情も真理の光に照らされれば跡形もなく消え去るしかありません。
真理は常に豊かであるのに対して、自我は欠乏の信念であるためそこから生じるのは常に幻想という誤りだけなのです。
闇や恐れには私を動揺させる力など何もなかったと 気付くまでは、それがそこにあり続けているかのように見えます。
しかし、ありのままに観られた幻想はその実在性を失うしかありません。
それは一つの漢字をただ眺め続けていたらそれが何なのか次第に分からなくなってくる「ゲシュタルト崩壊」と似ています。
漢字に与えられている読みや音といった意味付けという思考の拘束が一瞬でも剥がれたとき自我は突然不安定になります。
自我にとっての自由とはまさしく死を意味するために束縛や制限の世界へと一目散に逃げ出します。
あなたが恐れているとき、実際に怯え恐怖しているのは自我であってあなたではありません。
自我は常に愛を恐れるのです。
なぜなら、ひとたびあなたが愛を経験したなら、あなたは自我に対する保護をすべて撤回し、恐れに対する思い入れを完全になくしてしまうからです。
そのため自我は私たちを肉体という形態に閉じ込めようとします。
ありとあらゆる個人的なアイデンティティを用いて私たちを「分離した自己」としてこの世界に幽閉しておこうと必死なのです。
自我が自己証明として利用する典型的なものには性別、年齢、職業、肩書き、他人からの評価、学歴、ルックス、特殊技能、交友関係、家柄、所有物、信念体系などがあります。
ときには政治や国家、人種、宗教などの集合的なアイデンティティも利用されます。
しかし、これらのどれもが「真の自己」つまり本当のあなたではありません。
あなたの目醒め、そして自由への解放の扉は恐れという幻想を超えた先にしかありません。
この苦しみの世界からの脱出口は闇を抜けた先にあるのです。
私たちの苦しみの大半は、この瞬間を目の前にしてなす術がないこと、無力なこと、弱いこと、不安定なこと、不確かなことを心の底から受け入れられない気持ちから生まれてきます。
あらゆる苦しみは、この瞬間をコントロールしたいのにできない!
という叫びと言っていいでしょう。
ですから真に成功したければ失敗を求めてください。
平安でいたければ、恐れを直視してください。
真実を知りたければ真実ではないもの(幻想)を見つけ出してください。
天国に入りたければ地獄(苦しみ)を通過してください。
あなたのその勇気が恐れていたものなど実は存在していなかったという洞察力をあなたに与えます。
この逆を求めるのが自我の働きです。
自我は愛の上に恐れのベールを掛けてあなたが愛に近づかないようにします。
あなたが神に迎え入れられないようにするために神を悪魔の姿に偽装したのです。
失う恐れを抱いているのはあなたではなく自我自身であることをもう一度思い出してください。
現在、あなたは自我を超えるプロセスをくぐり抜けているところです。
あなたの周囲にコンピューター機器が故障したり、交通やフライトスケジュールの遅れ、予定の突然のキャンセル、また人間関係でのトラブルといった混沌が見られるなら、おそらくどこかのレベルであなたは恩寵という大いなる愛の流れをコントロールしようとしているのです。
恩寵をコントロールしないでください。
恩寵をコントロールしたいと思うことは自然なことですが、いずれあなたはそれができないことに気づくでしょう。
起こることをただありのままにさせてあげてください。
同じようにありのままに観るというのは、肉体の目が知覚したものを価値判断によって意味付けすることではなく、愛の視点という赦しを通して目の前の現象を見過ごし、自我の思考体系を「真の自己」によって訂正してもらうことです。
自我は当然それに対して拒否反応を起こします。
自我は全体性であり一体性である愛の立場からではなく、分離という恐れの立場から見ることをあなたに強制するからです。
ですから、あなたが目の前の事象を見過ごし真実の面を見ようとするなら自我は大音量で注意喚起のアラームを鳴らし、あなたに一刻も早く愛から手を引くようにと命じます。
あなたに闇を観る勇気があればその正体がなんであるかが知らされます。
よくよくその事象を観るとそのラベルにはこのように記されていることが分かります。
製造元:自我(エゴ)
主成分:罪悪感
効果作用:神からの分離
内容物:怖れ・憎み・妬み・恨み・嫉み・悲しみ・恥・無価値・焦り・不安・不満・寂しさ・怒り・苛立ち・疑い・傲り・欺き・怯え・憂鬱・陰鬱・懸念・危惧・惨めさ・無念・後悔・懺悔・嫌悪・敵意・殺意・・・
効能:対立・被害・苦境・報復・懲罰・冒涜・破壊・疎外・脅迫・迫害・狼狽・差別・軋轢・挫折・屈辱・孤独・背信・抵抗・執着・中傷・愚痴・無知・隠蔽・横領・欺瞞・復讐・不正・非道・侮辱・屈辱・狂気・悪態・喪失・損失・不足・不完全・不自由・拘束・束縛・欠乏・躁鬱・不純・苦痛・混乱・醜態・堕落・失態・失墜・落胆・別離・崩壊・脆弱・分断・分裂・緊張・困惑・混乱・邪推・誘惑・抑圧・重圧・摩擦・服従・支配・絶望・・・
これによってあなたが知覚できるものは形態レベルにまで現象化された事件や事故、病気、紛争、災害といったあらゆる罪の意識の産物たちです。
自我は常に大いなる愛からの呼びかけを神から分離してしまった罰として罪の意識を自身と世界に向けその源を偽装します。
目の前のすべての出来事があなたにとって「真の自己」へと導く手段にもかかわらず私たちは愛を見誤り恐れへとまた一歩後退してしまうのです。
転落があると思っていたところには救いがあります。
死はもはやあなたが何者であるかが覆い隠されただけの薄暗い一枚のカーテンに過ぎません。
あなたの肉体の目から真理を遠ざけていた鱗が剥がれ落ちたとき第三の眼としての心眼が回復されます。
世界は恐ろしいものを映し出す波だったスクリーンからあなたの神聖さを反映する、まるで静寂した清らかな湖面へと変貌します。
争い合っていた対立関係から調和された関係が蘇り、敵とみなしていた隣人が今や愛を分かち合う神聖な兄弟として映し出されるのです。
苦しみの先には祝福が、闇を超えたところには光があります。
幻想は真実に取って代わられ、あなたは恐れを克服した先についに永遠なる愛を発見するのです。
あなたが恐れに対して向き合う勇気が持てるよう祈っています。
なぜならあなたは私と同じゴールを共有しているからです。
私たちは一つで繋がっているが故に誰か一人を取り残した状態で目醒めることはできません。
あなたは自ら望み選択したことで、解放への扉がある場所をついに発見しました。
それはあなたが一度もそこにはないと確信していた場所でした。
もう道に迷うことも、これ以上時間をかける必要もないのです。
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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参考書籍
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