聖霊による赦しの三つのステップ 罪悪感を取り消す方法とは
聖霊は私たちの苦しみの原因となっている罪悪感をすっかり手放すのにうってつけの方法を与えてくれています。
そして、聖霊によるその方法は非常に巧みです。
自我(エゴ)は自分のことを知的で利口であると思っていますが、聖霊の方が一枚も二枚も上手です。
なぜなら、聖霊は自我が私たちを罪深き者として、罪悪感の象徴である肉体の牢獄に閉じ込めておくために使用してきた「投影のはたらき」そのものをそのまま用いて、自我に対する形勢を逆転させるからです。
過去記事の
では、赦しというものの概観を様々な角度から紹介してきましたが、今回は苦しみの原因となっている罪悪感を実際に取り消すための「聖霊による赦しの三つのステップ」を紹介していきたいと思います。
ちなみに、あなたにとってこの「赦し」という言葉がどうしてもピンとこない場合は「赦し」の部分を「心の断捨離」や「心の浄化」または「心のお掃除」としてみてください。
そうすれば今よりもきっと理解できるかと思います。
これらの分かりやすい言葉に変換することは、学びを促進させる初期段階としては非常に有効になりえます。
なぜなら、今のあなたの学びのレベルに適した言葉に置き換えなければそれを認識すらできないからです。
これを「方便」といいます。
方便とは、真理そのものではないですが、真理へと近づける釈迦の智慧と慈悲による悟りへと至らせる完璧な教育法です。
つまり、相手の能力や状況などに応じて方便を交えながら教えを説くこと、こうした釈迦の教えを「対機説法」といいます。
また、「指月の譬え」というものが龍樹菩薩の「大智度論」という教典に出てきます。
これは「月の在処を教えるために指で差し示しているのに、なぜ指を見て、月を見ようとしないのか」という意味になります。
ここでいう指とは、差し示されたものへと導くための手段であって、指そのものを見て欲しいわけではないということです。
しかし、私たちはまず指を見てからでないと、指が差している延長線上のものにたどり着けないのです。
「月という真理」は「指という伝えるための手段、真理へと導く段階的な教え」がなければ認識できないということです。
また、言葉も真理にはなり得ませんが、その言葉という梯子を登っていくことでしか私たちは真理を自覚できないのです。
そして、その言葉自体にも人によって受け取れるものと受け取れないものといった段階があります。
ですから、あなたの受け取れるものにまずは置き換えて理解することは大切なのことなのです。
そうして、一つひとつのステップを踏んで行くことがあなたを安全に、そして確実に平安と自由へと導くのです。
しかし、今後さらに学びを続けていくためには「赦し」という言葉自体に与えたあなたの価値観や意味付けをありのままに観ていかなければなりません。
なぜなら、その言葉に抵抗感があるというその裏には、必ず隠されたあなたの罪悪感が潜んでいるからです。
つまり、すべての罪悪感を取り消すためには「赦し」という言葉さえも「赦していく」ことは避けられないということです。
そして、それは「赦し」だけではなく、「聖霊」や「イエス」また「神」といった言葉、さらにはあなたにとって抵抗を感じるものすべてを含むということを意味しています。
なぜなら、抵抗感とはあなたの間違った信念を土台に築かれた世界の見方によって起こるものだからです。
つまり、あなたがこれまで学んできた真理と逆さまな思考体系を取り消し、訂正する作業が「赦し」(心の断捨離、浄化、お掃除)なのです。
ここまでを踏まえて「聖霊による赦しの三つのステップ」の具体的な実践方法をこれからお伝えしていきたいと思います。
まず、冒頭で
”聖霊は自我が私たちを罪深き者として、罪悪感の象徴である肉体の牢獄に閉じ込めておくために使用してきた「投影のはたらき」そのものをそのまま用いて、自我に対する形勢を逆転させる”
と言いました。
この自我による罪悪感の投影を、映画館にある映写機のようなものだと考えてみてください。
そして、あなたの心が映写機であり、あなたには、いつも映写している罪悪感のフィルムがあると想像してみてください。
これはどういう意味かと言うと、あなたは自分の世界を隅から隅まで、「自分の罪悪感を表わす人々で埋め尽くしている」ということです。
これらの人々が映し出されているスクリーン上に、あなたは自分のフィルムから罪悪感を投影し、自分自身の罪と罪悪感を、自分以外のあらゆる人々の中に見ます。
あなたがそのようなことをする理由は、そうすることが自分の罪悪感を手放す方法だという自我の論理に従っているからです。
さて、あなたが自分の罪悪感に自分一人で対処するなどということは、到底できることではありません。
罪を直に見て、なお生きることなど絶対にできないのです。
そんなことは考えただけでもぞっとさせられます。
ところが、自我のやり方を逆手に取れば、罪悪感を手放すことができるのです。
自我はあなたの罪悪感を追放すると見せかけながらそれを強化することによって、あなたを攻撃してきたわけですが、そのときに自我が用いる「自分の罪悪感を自分の外に置く」というメカニズムそのものが、罪悪感を手放す機会となるのです。
つまり、あなたが自分自身の中では直視することができない罪悪感を兄弟の中に見ることが、あなたがその罪悪感を手放す機会となる、ということです。
そして、これがとりもなおさず、赦しというものの簡潔な定義なのです。
赦しとは、罪悪感の投影を取り消すことです。
繰り返すと、あなた一人ではこれに対処できず、自分の中で解き放つことができないあなたの罪悪感を「兄弟である他者」というスクリーンに投影することによって、あなたはそれを見ることができるようになり「今、私はそれを違った見方で観ることができる」と言える機会が得られる、ということです。
あなたが兄弟の中で看過して赦す罪や罪悪感は、実際には、あなたが自分自身の罪や罪悪感と見なしているものと全く同じものです。
ところで、これは罪の内容が本質的に同じ、という意味で形は全く異なることもあります。
それをあなたの中で赦すことによって、私は事実上、それを自分自身の中で赦していることになります。
これが、今回「聖霊による赦しの三つのステップ」の中で鍵となる概念です。
あなたは自分の罪悪感を兄弟(他者)に投影します。
だから、その相手を、聖霊があなたに望んでいる通りの見方で観ること、つまり、キリストの心眼を通して観ることを、あなたが選択するとき、あなたは自分自身についての思考を逆転させることができるのです。
あなたが自分の闇を兄弟の上に投影したからこそ、兄弟の中の「真の自己」であるキリストの光が隠されているわけです。
ですからあなたが兄弟に「あなたは闇の中にいるのではない」と明言することに決めるなら、あなたは事実上、自分自身についても全く同じことを表明していることになります。
つまり「あなたは、本当は光の中にいる」と認める決断は、あなたが兄弟の上に置いた闇を手放そうという決断なのです。
ということは、「真の自己」であるキリストの光が兄弟の中で輝くだけでなく、私の中でも輝くと、あなたは言っていることになります。
そして、実はそれは同じ光なのです。
ここまでが、赦しの概略になります。
ですから、そういうことであれば、あなたは自分の人生で出会うすべての人に感謝すべきだということになります。
特に、あなたにとって最も厄介な相手となる人々についてそれが言えます。
あなたが最も憎んでいる相手、最も不愉快だと思う相手、一緒にいるのが最も気まずい相手、こういった人々が、聖霊があなたに「送った人々」です。
彼らこそ、あなたが最初は自分の罪悪感を投影してしまったけれども、別な選択ができるということを教えるために、聖霊が使うことができる人々です。
このことを表現した物語があるので以下の動画を参考にしてみるのも良いかもしれません。
「小さな魂と太陽の話」
※ニール・ドナルド・ウォルシュ著の『神との対話』から抜粋されたものです。許し(赦し)を経験したいと思った小さな魂(神の子)が人間となって、酷いことをしてくれる役割の天使(聖霊)の力を借りることで許すという経験が叶うという物語です。
つまり、こういった聖霊に遣わされた人々があなたのフィルムから人生のスクリーン上に映し出されていなければ、この罪悪感が本当は自分の中にあることをあなたが知ることはできません。
ですから、それを手放す機会もなくなります。
自分の罪悪感を誰か別の人の中に見て、そこでそれを赦すことが、あなたが自らの罪悪感を赦し、そこから自由になるための唯一のチャンスです。
その別な人の中でそれを赦すことによって、あなたはそれを自分の中で赦していることになるのです。
ですから、聖霊による赦しは三つの基本的なステップに要約できます。
第一ステップは、問題は外のスクリーン上にあるのではないと認識することです。
問題は内側、すなわち、あなたのフィルムの中にあるのです。
あなたが怒っているときはいつでも「問題は自分の中ではなく他者の中にあるので、変わらなければならないのは自分ではなく他者である」と思っていますが、この第一ステップの要点は、そうした「怒りは正当化されない」ということです。
ですから、このステップで問題は外にあるのではなく、自分の中にあるとまず正直に、そして素直に認めます。
このステップがなぜそんなに重要かと言えば、神は分離という問題に対する答えを、あなた(私たち)の中に置いたからです。
聖霊はあなたの外にいるのではありません。
あなたの心の中にいるのです。
罪悪感を投影しているときは、問題は自分の外にあると主張しているわけですが、あなたはそれによって問題を答えから離したままにしていることになるのです。
これはまさしく自我が望んでいることです。
なぜなら、自我の問題が聖霊によって答えられてしまったら、もはや自我は存在できないからです。
ですから、自我は問題はあなたの外にあるということをあなたに信じ込ませるにあたって、非常にずる賢く狡猾です。
たとえば、あなたの両親、教師、友人、配偶者、子供、さらには政治家などといった人々まで含む他者、または、株式市場でも、天候でも、あるいは神でさえもが、問題の在処だとあなたに信じさせます。
あなたは、問題がその本当の在処ではない場所にあると見ることが、とても上手です。
それによって、その問題に対する解決法を、問題から分離されたままにしておくことができます。
前回の記事で、聖霊に対して
「問題が解決されるように、私が問題を認識できますように・・・」
と祈ることが大切であると言ったのはこのためです。
問題は一つしかありません。
それは、分離を信じる信念そのもの、つまり、罪悪感という問題であり、それは常にあなたの外ではなく内側にあります。
しかし、赦しのための最初のステップは、問題は兄弟(他者)にあるのではなく、あなた(私)の中にある、と認めることです。
罪悪感は兄弟の中ではなく、あなたの中にあります。
問題は、映像が投影されたスクリーン上の方ではなく、あなたの中にあるフィルムであり、そのフィルムは罪悪感のフィルムです。
さて、次のステップに移りますが、これが一番難しいステップになります。
これは、あなたが、ありとあらゆる手段を講じて避けようとしているステップだからです。
それは、フィルムそのもの、つまりあなた自身の罪悪感に対処することです。
もともとこれをしたくないからこそ、あなた(私たちすべて)が、何としてもこの怒りと攻撃を正当化して持ち続けようとしているわけですし、世界を善と悪に分かれたものとして見ていたいと思っているわけです。
そうしている限り、あなたはこの第二ステップに取り組まなくて済みます。
つまり、自分自身の罪悪感やあらゆる自己嫌悪の気持ちを観ることをせずに済むのです。
第一ステップでは、自分の怒りというものは「自分の罪悪感を投影しようとして自分が下した決断である」と認めるわけですが、その次にくるこの第二ステップでは、この罪悪感それ自体も、かつて自分自身が下した一つの決断の表れであると認めることです。
それは、自分のことを罪悪感を抱いた有罪な者として見ることに決め、罪悪感のない無罪の者とは観ないことにするという決断です。
こうした決断の代わりにあなたが受け入れなければならないのは、私は神の子であって、人の子、自我の子ではない、ということです。
そして、「真の自己」である私の住処は神の中にあって、この世界の中にはない、ということです。
しかし、それを受け入れられるようになるためには、まずその前に、自分の中に罪悪感があるということをありのままに直視して、その上で罪悪感というものは自分の真の本質ではないと認めなければなりません。
そして、あなたがそれを認めることができるようになるための手段として、その前にまず、誰か他の人を見て「私が自分の罪悪感を投影することによって作り上げたあなたは、真のあなたではない。あなたは本当は、神が創造したままの完璧な無垢なる存在である」と認めることが必要なのです。
この自分の中の罪悪感を観るという第二ステップは、あなたにとって非常に恐怖を抱かせるものになり得ます。
このプロセスについてあなたが誤解しやすい点、特に初期段階のときに誤解しやすい点は、これがまったく楽にできることだと思ってしまうことです。
このことに注意していないと、その一見簡単そうな見かけに、いとも容易に騙されてしまいます。
なぜなら、救済されていない非二元のティーチャーたち、そして癒されていないヒーラーたちは、これがどんなにシンプルで簡単なことであるかということを言葉巧みに語るからです。
例えば、
「私はいない」
「私は体ではない」
「私は分離した個人ではない」
「すべては一つである」
こういったことは当然、真実ですがこれらは実相レベルのものであって、神の子が分離の夢を見てこの世界にいると信じているあなたにとっては、今それが真に頼りになるものではないからです。
ですから、私たちはそのような文面を読んだり聞いたりして、あたかもこのプロセスが容易であるかのように誤解してしまうのです。
「私は真実を理解したので解放された!」と勘違いするのです。
こうした誘惑による考えは自我の常套手段です。
仏教ではこのような煩悩による勘違いを「慢」と呼びます。
「慢」とは、人間の根本に根ざす煩悩の一つで、他人と自分を比較して他の人より「私は勝っている」と思うことによって兄弟と私は分離していると信じ込ませる自我の思考体系です。
そして、七つある慢の煩悩の中でも「増上慢」がまさにこれに当たります。
増上慢とは、自分が悟ってもいないのに悟ったと思ったり、知ってもいないのに知ったと奢り昂る迷いの心のことです。
またこうした考えの最大の弊害は、この罪悪感を直視するプロセス自体をすっ飛ばすこと、つまり恐れをありのままに観ないことによって、苦しみの原因になっている罪悪感を隠蔽し、さらに強化させることになってしまうというものです。
つまり、私たちが自分の罪悪感と取り組もうとして上記のステップを進み始めたときに生じてくる、不快感や抵抗、葛藤といったものに取り組むことから逃げて、あなたにとって簡単に思えるものに飛び付きたくなる衝動に負けてしまうということです。
これらは完全に自我による誘惑そのものです。
自分の罪悪感と恐れに取り組むことなく自我を手放すことができる人はいません。
実相レベルの真実を信じ込もうとしても、その前にそれらを邪魔している信念と決断が立ちはだかっているからです。
なぜなら、罪悪感と恐れを選択し信じた張本人が自我そのものだからです。
このプロセスを困難と苦痛なしに通過することはできません。
けれども、私たちが困難と苦痛を味わうことが神の意志だということではありません。
これはあなた自身の意志です。
罪悪感を作りだしたのはあなた(私たち)なのですから、あなたは罪悪感を手放せるようになる前に、まずそれを直視しなければなりません。
そして罪悪感を直視するということは、非常に恐ろしく苦しいものとなることがあります。
この神に対する恐れは肉体の眼が見る恐れとなって知覚されます。
そしてこれが、平安に到達する前の最後の障壁であり、そこにあなたの罪悪感が最も深く埋められています。
ですから、第二ステップは、自分の罪悪感を直視して、それは自分がでっち上げた作り事であると自ら進んで認めようとする意欲を持つことです。
この罪悪感は神からあなたに授けられたものではなく、あなた自身が、自分を神が創造した存在とは違うものとして見ると決断したことによってもたらされているのです。
それは、あなたが自分自身を、神の子としてではなく、罪悪感を抱いている自我の子として見る、という決断でした。
ですから、罪悪感を作り出したのはあなたなのだから、それを取り消すことができるのはあなた自身ではない、という点です。
罪悪感を取り消すには、自我の外側からくる助けが必要です。
この助けが聖霊です。
ですから、私たちにとっての唯一の選択肢は、聖霊を招き入れて、自我の思考体系の誤りを正してもらい、あなたから罪悪感を取り除いてもらうことです。
こうして聖霊があなたの罪悪感を取り除くのが、第三ステップです。
第二ステップは、事実上、聖霊に向って、
「私は、もはや、自分自身を罪悪感に苛まれた者として見ることを望みません。どうか、これを私から取り去ってください」
と求めることです。
第三ステップは聖霊の役目であり、聖霊はただ罪悪感を取り去るだけです。
というのも、実際には、聖霊はすでにそれを取り去っているからです。
ここでは、あなたがそのことを受け入れるかどうかという点だけが問題なのです。
以上の三つのステップを繰り返すと、
第一ステップは、「問題は自分の外にあるのではない。自分の中にある」と認めることによって、投影されている怒りを取り消します。
第二ステップは、自分の中にある問題とは自分で作り出したものであり、もはや、自分では望まなくなっているものであると認めることです。
第三ステップは、そのあとあなたがその問題を聖霊に預けて、聖霊がそれをあなたから取り去ることで達成されます。
これらのステップは非常にシンプルなもののように聞こえますが、一生かけて成し遂げられれば運が良い方だ、と言えるくらい難しいことです。
一朝一夕で達成できるようなものだと思ってはなりません。
聖霊の目的は、あなたを正しい軌道に載せることであり、あなたを聖霊の指導下におき、その後は、聖霊と共に生きるようにさせることです。
罪悪感を取り消すことは一生かけて取り組むべき課題です。
私たちの中の罪悪感は実に膨大なものだからです。
その膨大さたるや、もしもそのすべてに一度に直面するようなことにでもなったなら、死んでしまうか発狂するかと思われるほどのものです。
ですから、一度に少しずつ取り扱うことが賢明なのです。
あなたの人生を構成するさまざまな経験や状況が、罪悪感のある状態から無い状態へとあなたを導く聖霊の計画の一部として用いられることが可能です。
あなたは今回、自分では想像もできないほどに多大な遅延や不要な惨めさから、あなたを救ってくれる赦しのレッスンを学びました。
それは次の通りです。
何かに対抗して自分を防衛するとき、それは兄弟からの攻撃以外にも、例えば「赦し」という言葉に対しての抵抗感も含め、それを作り出しているのはあなたであり、あなた自身の防衛によって、それが実在性を帯び、それに捉われることによってそこから脱出できなくなっているということです。
あなたは咎めて裁くという武器を捨てなければなりません。
それには過去記事の
他人の間違いや欠点に不満や怒りが知覚された時に思い出して欲しいこと
が役に立つでしょう。
あなたはそのとき初めて、恐れを虚偽と知覚するようになります。
あなたが攻撃する相手は、外にいる敵であるかに見えます。
けれども、あなたの防衛が、内なる敵を作り上げているのです。
それはあなた自身と戦う異質な考えであり、あなたから平安を奪い、互いにまったく和解不可能に見える二つの陣営へとあなたの心を分裂させています。
今や、愛にはその反対のものである「敵」がいることになっています。
そして今では、異質なものである恐れの方があなたの真の本性に脅かされ、あなたによる防衛を必要としています。
あなたの空想上の正当防衛が想定通りに展開されるための手段について、注意深く検討してみるなら、その考え方がどのような前提に立っているのかを知覚することができます。
まず第一に明らかなのは、想念はその源を離れるはずだという前提です。
なぜなら、攻撃しているのはあなたであり、それを初めに考えついたのもあなたに違いないからです。
しかし、あなたは自分の作り出した分裂は実在していると信じ込んで、自分自身の外側を攻撃し、攻撃される相手から自分の心を分離させているのです。
あなたは一度も分離していません。
それを囲んでいる聖霊がすでにあなたに融合をもたらしており、あなたの卑小なる闇の捧げ物を永遠の光へと戻したからです。
どのようにしてこれが行われるのでしょうか。
それは、自我が作り出したこの世界という小さな王国の実態を踏まえれば、至極単純なことです。
この世界全体は不毛の砂であり闇、そして生命の欠如によって出来ています。
そして、それらは肉体の眼を通してのみ見えるものです。
その眼に映る荒涼とした風景は歪曲されており、自分の自覚を限定するためにそれを作り出したあなたにそれが送信するメッセージは、卑小で限定されたものであり、あまりにも断片化されていて無意味なものとなっています。
自我の狂気によって作り出された分離した世界からは、それを作り出した心へと、狂気のメッセージが返されるように見えます。
そしてこれらのメッセージはこの世界の証人となり、この世界は真実のものだと宣言します。
あなたがそうした情報を持ち帰るようにと、これらの使者を送り出したからです。
これらのメッセージがあなたに伝えることはすべて、きわめて外面的で形態的なことばかりです。
その奥に横たわるものについて語るメッセージは一つもありません。
それを語り得るのは、肉体ではないからです。
肉体の眼はそれを知覚できません。
その感覚はそれに気付かないままです。
その舌はそのメッセージを伝えることはできません。
ですが、もしあなたに恐怖のごとく見えるものを通り抜けて聖霊に着いていく決断と、聖霊は決して自分を見捨ててそこに置き去りにはしないという信頼があれば、聖霊はあなたをそこへ連れていくことができます。
なぜなら、あなたを怯えさせることは聖霊の目的とするところではないからです。
あなたは恐れの外縁で聖霊を見捨ててしまいたいという誘惑に負けそうになりますが、聖霊はそこをはるかに越えて、あなたを安全に導こうとしています。
あなたが裁き攻撃することのできる相手は、あなた自身だけです。
このことがしっかりと理解され、充分に自覚されるなら、あなたは自分自身を傷つけることも、自分の肉体を復讐の奴隷にすることもしなくなります。
自分自身を攻撃しなくなり、他人への攻撃は自分への攻撃に過ぎないと悟るのです。
こうして、兄弟を攻撃することが自分を救うという狂った信念からも自由になります。
そして、兄弟の安全が自分の安全であり、兄弟が癒されるときあなた自身が癒されると理解するようになります。
最初のうちは、どうしてすべてを確かに保護し続ける無限の慈悲が見出せるのか、分からないかもしれません。
実際、罰はまるで免れられないという警告のように見えるかもしれません。
なぜなら、自我は脅威のように見える状況のもとでは、自分の嘘を救うために急いで真理を引き合いに出すからです。
ですが自我は、自分がそのようにして引用する真理を理解することができません。
しかしあなたは、そうした愚かな真理の使い方を見て、そのような使い方の中に含まれているように見える意味を、赦しによって否定することを学ぶことができます。
そのようにして、あなたは同時に、自分が自我ではないことを自分の心に教えるのです。
自我が真理を歪めようとするやり方は、もはやあなたを欺けなくなるからです。
あなたは、自分が十字架にかけられる一つの肉体であるとはもはや信じなくなります。
そして、あなたのまなざしは、十字架刑や死の想念を看過して、自由や生命の想念へと達し、聖霊から学ぶ赦しによって復活の光を見るようになります。
あなたが十字架にかける相手はあなた自身以外にいないというのなら、あなたは世界を傷付けたことはなく、その復讐や追跡を恐れる必要もないのです。
さらには、投影の背後に隠されている神に対する死ぬほどの恐怖から、恐れおののいて逃げ隠れる必要もありません。
あなたが最も恐れているのはあなたの救済です。
あなたは強き者であり、あなたが望んでいるのはその強さです。
そしてあなたは自由であり、自由を喜んでいます。
あなたは自分の強さと自由を恐れたので、弱き者となって、束縛されることを求めてきました。
しかし、救済は強さと自由の内にあります。
恐怖があなたの心をあまりにも完全に締めつけるので、脱出の希望すらないように思える瞬間があります。
あなたが自分が恐れているのは自分だということを、迷いの余地なく完全に悟るとき、心は自分が二つに分裂していることを知覚します。
攻撃が外に向かって為され、外から自分の内側へ返されると信じていた間は、このことは隠されていました。
自分が恐れるべきものは外側の敵のように思えていました。
そうして、あなたの外の神があなたの宿敵となり、恐れの源となっていたのです。
あなたの死を切望し、あなたを殺せるその時がやってくるまであなたを罰し続けようと企む一人の殺人者が、今一瞬の間、あなたの内側に知覚されます。
しかしまた、この瞬間こそ救済が訪れる時でもあるのです。
神に対する恐れが消滅したからです。
そしてあなたは、神を父と呼び、自らを神の子と呼んで、神に向かってその愛により自分を幻想から救ってくれるようにと、助けを求めることができます。
その瞬間がすぐにくること、それが今日、そして今この瞬間であることを祈っています。
聖霊による赦しの三つのステップのおさらい
第一ステップ
「問題は自分の外にあるのではない。自分の中にある」と認めることによって、投影されている怒りを取り消す。
第二ステップ
自分の中にある問題とは自分で作り出したものであり、もはや、自分では望まなくなっているものであると認める。
第三ステップ
あなたがその問題を聖霊に預けて、聖霊がそれをあなたから取り去る。
日常生活において、こうした日々の赦しの実践のみがあなたを自由にし、そして平安へと向かわせます。
それには、あなたの兄弟に対しての赦したいという意欲が必要とされます。
最後に、奇跡講座のワークブックの中から赦しの練習(心の断捨離)にあたってあなたが挫折しそうなときに助けとなるであろう聖霊からの言葉を残して「赦しの三つのステップ 罪悪感を取り消す方法とは」の説明を終わりにしたいと思います。
赦しとは何か?
赦しについての概観は過去記事をご覧ください。
真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(1/3)
真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(2/3)
真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(3/3)
聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(1/3)
聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(2/3)
聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(3/3)
スピリチュアルな人生の後半期では自我の凶暴性を理解しておくことが肝心(1/2)に続く
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
リンプ
参考書籍
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