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特別性と罪悪感の関係(3/5) 〜「特別な憎悪」と「特別な愛」〜

特別性と罪悪感の関係(1/5)〜特別であることの魅力とその危険性〜
特別性と罪悪感の関係(2/5)〜攻撃と防衛のサイクル〜

「特別な憎悪」と「特別な愛」

さて、これまで「怒り」として説明してきたものは、実際には投影が呈する形態のうちの一つに過ぎませんでした。

コースは攻撃の二つの形態に相当する二つの「特別な関係」というものについて述べていますが、怒りというのは、その二つのうちの最もあからさまな形の表現です。

このコースにおいて理解するのが最も難しいのが特別性という概念であり、実際に実生活で実践するのがさらに難しいのが、自分の「特別な関係」から「神聖な関係」へと変容させることです。

特別な関係には二つの形態があります。

一つ目は「特別な憎悪の関係」で、これがこれまで述べてきたものです。

この関係においては、あなたは自分の憎悪の対象にすることができる他者を見つけ出します。

これは、真の憎悪の対象から目を逸らすためです。

そして、真の憎悪の対象というのは自分自身です。

二つ目の形態は「特別な愛の関係」と呼んでいるものです。

この「特別な愛の関係」が、最も強力で油断のならないものなのですが、その理由は、それが最も微妙で認識されにくいからです。

再び言いますが、このコースの中で理解し、自分自身に当てはめるのがこれほど難しい概念は他にありません。

「特別な愛の関係」はワークブックとマニュアルでは全く言及されていませんし、テキストにおいても、十五章になるまでは出てきません。

けれども、その後の二十三章までの九つの章で語られる内容は、ほとんどすべて「特別な関係」についてです。

「特別な愛」を認識し、それに対処することがそんなにも難しい理由は、それが、その真の正体とは異なるもののように見えるからです。

自分が誰かに対して怒っているときであれば、その事実を自分自身から隠すのは非常に難しいものです。

しばらくの間は隠すことはできても、そうした幻想を長続きさせることは実に難しく、いずれは自覚してしまいます。

ところが「特別な愛」の場合はそうはいきません。

それは常に、その正体とは違ったものに見えます。

それは実際、この世界で最も魅力的であると同時に欺瞞的な現象と言えます。

それはおおかた「特別な憎悪」と同じ原則に沿ってはいますが、その形が異なっています。

「特別な愛」の基本原則も、自分の罪悪感を他人の中に見ることによってそれを手放そうとするという点で、「特別な憎悪」と同じです。

したがって「特別な愛」は本当は、単に憎悪の上に被せられた薄い偽装のベールに過ぎません。

繰り返しますが、憎悪とは自分自身に対する真の憎悪を経験せずに済むように、他の誰かを憎もうとする試みに過ぎません。

このあと、以上の原則が基本的にどのように作動するか、つまり、どのようにして自我は「愛」によってあなたを罪悪感から救うと見せかけながら、実際には憎悪によってあなたの罪悪感を強化させているのかを、三つのケースに分けて説明してみたいと思います。

要するに、特別性というものは、罪悪感からあなたを守ってくれるように見えながらも、実は罪悪感を強化し続けるもので、それが自我の目的に役立ちます。

そして、それは三つの基本的なケースで行われます。

このケースについて、これから説明したいと思います。

一つ目のケースは、もしあなたに何か特別な必要があり、誰かがやってきてその必要を満たしてくれることになった場合、あなたが実際に何をしたのかと言えば、その誰かである他者をあなたの罪悪感の象徴としてしまったということです。

今、この説明は自我の枠組の中だけで考えています。

ここでは、聖霊のことは考えずに話を進めます。

ここであなたがしたことは、他者をあなたの罪悪感と関連付けたということです。

なぜなら、あなたが他者との関わりと他者への愛に与えた唯一の目的は「あなたの必要を満たす」ということだけだからです。

したがって、意識的レベルではあなたは他者を愛の象徴にしたわけですが、無意識のレベルでは、実はあなたは他者を自分の罪悪感の象徴にしてしまったのです。

あなたがこの罪悪感を持っていなかったなら、あなたは他者をこのような形で必要としなかったでしょう。

あなたがこのような形で他者を必要としているという事実そのものが、あなたは本当は有罪なのだということを、無意識のうちにあなた自身に思い出させています。

以上が「特別な愛」が、その愛によって防戦しようとしている罪悪感そのものを強化する一つ目のケースです。

他者があなたの人生において重要になればなるほど、「他者があなたの人生で果たしている真の役割は、あなたの罪悪感からあなたを守ることである」ということを私は思い出すことになり、それはあなたが有罪であるという事実をさらに強化することになります。

このプロセスのイメージとして役立つのは、あなたの心を巨大な箱に喩えることです。

そして、この箱の中にはあなたの罪悪感のすべてが入っていると仮定します。

あなたが世界中の何よりも欲していることは、この罪悪感を安全に箱の中に閉じ込めておくことです。

あなたはその中身について知りたくありません。

あなたが特別なパートナーを探すとき、あなたはその箱の蓋を閉じておくための重しとなる誰かを探しているのです。

その蓋をしっかりと閉めておきたいと思っているからです。

蓋がしっかり閉まっている限り、あなたの罪悪感は意識の表面に浮上してくることはありませんし、あなたがそれについて知ることもありません。

それはあなたの無意識の中に留まります。

とはいえ、他者があなたの箱の蓋の重しになってくれることをあなたが必要としているという事実それ自体が、その箱の中には何かおぞましいものが入っていて、自分はそれが外に漏れたり流出したりしないよう願っているということを、あなたに思い出させています。

繰り返しますが、あなたが他者を必要としているという事実自体が、あなたがこうした罪悪感のすべてを持っているということを、無意識のうちにあなたに思い出させているのです。

「特別な愛」が罪悪感を強化する二つ目のケースは、あなたのすべての必要を満たしてきた人が突然変わり始め、初めの頃と同じやり方であなたの必要を満たしてくれなくなったときに起こるものです。

人間には、残念ながら変化し成長していくという性質があり、あなたが願っている通りに不変のままでいてはくれません。

ですから、これが何を意味するかと言うと、ある人が変わり始めると箱の蓋が開いてくるのです。

たとえば、最初にあなたを必要としてくれていたようには、もはやあなたを必要としてくれなくなった、というようなことが起こるわけですが、そうすると、あなたの特別な必要は、もはやあなたが要求していた形では満たされなくなります。

この蓋が開き始めると、あなたの罪悪感が突然浮上してきて溢れでてくるようになりあなたを脅かし始めます。

箱から罪悪感が漏れ出てくるというのは、あなたが本当は自分がどんなにおぞましい存在だと信じているかということを意識するようになってくるという意味です。

そして、それこそがあなたが何としても絶対に避けたいと思っていることです。

出エジプト記の中で、神はモーセにこう言います。

「私の顔を見て、なお生きていることはできない」

これは罪悪感についても同じことが言えます。

「誰も罪悪感の顔を見て、なお生きていることはできない」

あなたが自分のことを本当はどんなにおぞましい存在だと信じているのかを直視するというのは、胸が押しつぶされるような経験なので、それに対処しないで済むためなら、あなたは世界中のどんなことでもしようとします。

ですから、この蓋が開き始めて、あなたの罪悪感が表面に溢れ出てくるようになるとあなたはパニック状態に陥ります。

なぜなら突然、あなたは自分自身について抱いているぞっとするような感情のすべてに直面しなければならなくなるからです。

そうすると、あなたの目標は非常にシンプルなものとなります。

つまり、その蓋をできるだけ早く、またしっかりと閉め直すということです。

ということはつまり、あなたは他者にこれまで通りのあなたに戻ってくれるように望むということです。

そして、自分の望むことを誰かにやらせようとするとき、世界で一番強力な方法はその人に罪悪感を抱かせることです。

あなたが誰かに何かをしてもらいたいなら、その人をいい気持ちにさせておいてから罪悪感を抱かせることです。

そうすれば、その人はあなたの望み通りにしてくれることでしょう。

誰も罪悪感を感じていたくはないからです。

罪悪感を通しての操作というのは、この世界では普遍的なものなのでもちろん誰でもよくご存知のはずです。

つまり、狙いとしているのは相手に罪悪感を抱かせようとすることであるため、あなたはたとえばこんなことを言います。

「いったい君に何が起こったんだい? 以前の君はあんなにまともで、親切で愛情深く、思慮深くて繊細で、優しくて理解ある人だったというのに・・今の君はどうだろう!何と変わってしまったことだろう!今では君には心遣いというものがなくなっている。利己的で、身勝手だし、鈍感になってしまった・・云々」

と延々と続きます。

ここであなたが目論んでいることは、その相手が罪悪感を感じるあまり、以前のあり方に戻ろうとするように仕向けることです。

これについては、誰しもがよくご存知の通りです。

さてここで相手が、あなたがやっているのと同じ罪悪感ゲームに参加しているのなら、その相手はあなたが望むとおりのことをしてくれて、蓋は再びかたく閉じられ、あなたは以前と同じようにその相手を愛するということになります。

もしも相手がそうしなかった場合、つまり、もはやこのゲームを続けたくないならば、あなたは相手に対して猛烈に怒り出し、あなたの愛は速やかに憎悪と化します。

もともと最初からずっと、それは憎悪だったわけですが・・・

最初の例で説明した通り、あなたは自分が依存している相手を常に憎むものです。

というのも、あなたがそんなにも依存している相手は、あなたに自分の罪悪感を思い出させており、あなたは罪悪感を憎悪しているからです。

ですから、それとの関連において、あなたは自分が愛していると公言している相手をも憎むことになります。

これが二つ目のケースで、これは憎しみがその真の正体であることを実証しています。

相手があなたの必要をあなたの望むとおりに満たさなくなったとき、あなたは相手を憎み始めます。

そしてあなたが相手を憎む理由は、自分で自分の罪悪感に対処するのは耐えられないことだからです。

それが蜜月の終わりとして知られているものです。

近年においては、それが起こる時期はどんどん早くなってきているようです。

特別な必要が以前のような形では満たされなくなったとき、愛情はすぐさま憎悪に変わります。

相手があなたに、「私はもうあなたの箱の蓋の重しになることはやめます」と言うときに起こることは分かりきっています。

あなたは別の相手(恋人やパートナー)を見つけることになります。

ワークブックのレッスンに、

別の形態を見つけることは可能である(W-pI.170.8:7)

奇跡講座/中央アート出版社

と書かれている通りであり、それはかなり簡単に見つかるものです。

ですから、ただ同じ自我の力動を一人の人から別の人へと移すだけになります。

これを何度でも延々と繰り返すことができますし、あるいは、それをやめて真の問題について何かをすることもできます。

つまり、真の問題とは自分自身の罪悪感です。

あなたが真にその罪悪感を手放したとき、それまでとは異なる関わりを始める用意ができたことになります。

これが、聖霊が見ている通りの愛というものです。

けれども、あなたが真に罪悪感を手放すまでは、あなたにとっての唯一のゴールは、自分の罪悪感を隠しておくことだけであり、ただ箱の蓋を閉じておく別な重しを探すだけです。

そしてこの世界は、こうした必要を満たしてくれる人々を見つけることにかけては、常に非常に協力的です。

そしてあなたは、連綿と続く「特別な関係」を次から次へと乗り換えていきます。

このプロセスについては、コースを読むのが辛くなるほど克明に描写されています。

このように特別性が憎悪の隠れ蓑となり、罪悪感を隠す偽装となるのが「特別な関係」ですが、その三つ目のケースは「特別な憎悪」と「特別な愛」の両方に当てはまります。

あなたが自分自身の必要を満たすための手段として他人を利用するときはいつでも、あなたは実際にはその人々を、本当の彼らとして見てはいません。

つまり、彼らの中のキリストを観ていないということです。

あなたはただ、自分の必要を満たしてもらえるように彼らを操作することのみに関心を抱いています。

あなたは実際、彼らの中に輝いている光としての彼らを観ることはしていません。

あなたが真に見ているのは、あなた自身の特定の闇に相当するような、特定の形の闇としての彼らです。

そして、自分の必要を満たすために誰かを利用したり操作したりするときはいつでも、あなたは本当は彼らを攻撃しているのです。

なぜなら、そのときあなたは彼らを自我として見ることで、キリストとしての彼らの真のアイデンティティを攻撃しているからです。

そして、彼らを自我として見るなら、それはあなた自身の中の自我も強化することになります。

攻撃というのは常に憎悪です。

ですから、攻撃したことに対して、あなたは罪悪感を感じないわけにはいきません。

以上の三つのケースが、自我があなたには別のことをしていると言いながらも、罪悪感を強化する具体的なやり方を示しています。

ですから、コースは「特別な関係」が罪悪感の拠点であると説明しているのです。

繰り返しますが、自我の立場から見て「特別な愛」がこんなにも打撃をもたらす効果的な防衛となっている理由は、それがその真の正体とは違ったものに見えるからです。

「特別な愛」が最初に生じるときには、それは実に素晴らしく、愛に満ちて神聖なもののように見えます。

けれども、それはすぐに変化してしまいます。

ただし、その外見を超えて進み、根本的な問題、つまりあなたの罪悪感にまでたどり着くことができるならば話は別です。

特別な関係は、自我が用いるすべての防衛の中でも、最も威風堂々たる虚飾の額縁に入った防衛である。・・・その額縁には、奇想を凝らして断片化されたさまざまな愛の幻想が、犠牲と自己増強の夢と共に織り込まれ、自己破壊という金ぴかの糸で縫い合わされている。・・・・この額縁のきらめきにうっとりと見とれていてはいけない。絵を見なさい。そして、あなたに差し出されているのは死であることに気づきなさい。(T-17.4.8:1,3; 9:10-11)

奇跡講座/中央アート出版社


特別性と罪悪感の関係(4/5)〜「特別な関係」から「神聖な関係」へ〜に続く



あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。

〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍


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