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私たちは、どこまでを行政に求めるのか。同時に私たちが責任を持たないといけない。

※写真は築地の素敵すぎる八百屋さんにて。せっかくなので子供を連れて伺いました。

大きな政府と小さな政府という考え方が古典的にあって、政府はどこまで経済活動に介入するべきなのか、言い換えれば、どこまで介入を許すのか、という議論や国家観を指すものです。

例えば、治安維持と所得の再分配(税)の機能のみを国が担い、それ以外は民間が自主的にサービスを構築して提供するのが小さな政府です。反対に、そういう最低限だけでなくて、所得の公平性のようなところまでを政府に任せたり、国の介入を積極的に認めていくのを大きな政府と言います。

健全な資本主義経済を想定すると、小さな政府であるべきと言われてきましたし、全体の公平を重視すると社会主義・共産主義の大きな政府に寄ってきます。それに伴って意思決定のあり方も違ってきますので、すごく大きなスケールの話です。

で、今日は何故こんなことを書いているのかというと、昨年からスタートした新型コロナウイルスの影響によって、政府が経済活動や国民生活に介入する度合いは著しく高まっていて、今回の酒類の提供禁止措置などは国民として少し情けない気持ちになってしまったのです。(あくまでも私の考えです。)

というのも、今回の施策は「とにかく一刻も早くコロナの感染拡大を押さえ込まないと、医療崩壊が起こってしまう」という背景があって、そうならないためにも感染経路として主要なポイントとされている飲食の場、とりわけ飲酒の場での感染が多いという事実認識に基づいて、国としては、

1 マスク飲食を奨励してきたけどなかなか拡大が収まらない
2 時短営業を求めても改善が見られない。(飛沫防止できてないから)
3 国民は飛沫による感染の危険性を分かってないから酒を飲まさない方が良い
4 国民に「飲むな」と言っても「止めれない」
5 飲む人を止めれないなら、蛇口の元である飲食店にお酒の提供をやめさせるしかない。

要はこういう考えのプロセスなのだと思います。

で、もう昨年から緊急事態宣言が3度も発令されていて、1年以上経っている状況で国民側も結構慣れてしまい、国や自治体が国民生活に介入する度合いがどんどん高まっているなぁということが、改めて考えないといけないのではないかと思うのです。

昨年の今頃であれば、コロナの全容がよくわからず、補償をどんどんしながらも感染経路を手探りで断絶させてワクチンの開発を待たざるを得ず、社会全体でコロナウイルスと対峙する必要があったわけですが、既に1年以上が経過してもはや「緊急」ではなくて、「慢性」になっているわけで、完全にWithコロナ時代なのです。

いつまで経っても緊急対応をしているわけにはいかず、補償もし続ける体力がないのですから、どのように付き合っていくのかを政府任せになるのではなくて、私たち国民一人一人の自らの選択に委ねていかなくてはならないのではないかって思うのです。

これだけリスクに関する情報があるのですから、例えばクラスタが発生するならそれは衛生管理の問題や店舗として行うべき空調管理などの安全配慮義務の問題にするとか、逆に罹患しているにも関わらず他者に感染させてしまったことに過失責任を認めるとか、コロナに関する情報がある程度広がっている今は、逆に国民に委ねる方向があっても良いと思います。

非常に難しく、極端にAかBかという判断よりも、その間を行ったり来たりしながらバランスをとっていくということをせざるを得ないのですが、Withコロナ時代にどのような生活様式を「根付かせたい」と考えるのかで政策を打ち込んでも良いのではないかなって思います。


娘がコロナ禍で無事に生まれたことに、私は心から感謝をしています。生まれてきて良かった、って将来心底思って欲しいから、素敵な社会を残していきたいし、そういう背中を見せられる父でいたいって痛切に思います。


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