見出し画像

私にとって読書は趣味?習慣?


①はじめに

 話に入る前に、ひとまず現状を。大卒後に就いた仕事を3週間で辞め、現在は次のステップへの準備期間と痛めた足の療養期間を送っている。最近は身内の介護や畑の手伝いや、友人がやっている事業の手伝いをしながら、スキルアップとして今後に役立つ知識を得るために検定や資格の勉強をしている。足のケアをしつつ、新たな発見があればとあちこち赴き、日々模索中だ。
 直近2ヶ月間何をしていたかはこちら↓

 この生活になって重視していることが幾つかあるが、そのうちの一つが読書だ。なにか新たな発見があればと思い、色々なジャンルを読むことにしている。これまで沢山本を読んできたが、生活の中で最も読書に時間を割いているのは今だと思う。
 今回はこの「読書」をメインに、「趣味」と「習慣」の2つの側面から自分自身の脳内を整理し、文章化していく。


②趣味との境界線

 唐突だが、私は多趣味な人間だ。好きなものや夢中なものは山ほどある。挙げていくとキリがない。したがって、趣味は何?と聞かれた時が一番困る。質問をしてきた相手とその場の状況にもよるが、話がどの方面に膨らむかを即座に予測し、最適解と思われる答えをいつも出している。中でもよく使う答えはこちら。

 「(多趣味で絞るのが難しいが取り敢えず)趣味は読書です。」

 世の中、同じように答える人間は少なくないだろう。無難な答えだ。自分を知ってもらう事もでき、返答次第では話が続く。好みの本やジャンルを知ることで、相手の人物像がみえてくるかもしれない。
 「好みのジャンルはミステリーとSF。好きな作家は江戸川乱歩とフィリップ・K・ディック。日本近代文学も好きで昔からよく読んでいる。」
 私の場合は、この3文で話を進めることが多い。

 だが、ふと違和感が生じた。趣味は何かと自問自答した際に、読書が趣味だと言い切ることに疑問を感じてしまった。読書が好きなことに間違いはない。幼少期から区の図書館に週1回は行っていた。小学校から大学までも暇さえあれば学内の図書館に籠っていた。本屋にもよく行く。時間があれば行く場所は、本がある場所だ。
 だが、改めて考えるうちに、私にとっての読書とは “趣味”の領域にあるものではなく、”生活の一部”の領域にあることに気がついた。読書をすることは自分にとって当たり前の行為であり、毎日の生活に組み込まれている。本を手に取らない、活字を追わない生活は存在しないといっても過言ではない。生活の一部であるならば、それは趣味とは言わないのではないだろうか。
  ここで例を挙げる。私の数多の趣味の1つに映画鑑賞があるが、映画鑑賞はあくまで趣味=好きなことであり、毎日観ないと気が済まないとまではいかない。時折1日5.6本鑑賞する気の狂った映画鑑賞デーを作っているが、それは1年のうち極わずかである。日々の生活にまで侵食していない。つまり、趣味≠生活の一部、である。

  今まで自分と読書の関係性を自覚しておらず、そもそもあまりにも近しい存在なため深く考えたこともなかった。今まで私にとっての読書は趣味という大きな領域にいたが、実際は違った。読書は生活の一部、つまり趣味ではなく習慣に値するものだったのだ。


③自分と読書

 読書は生活の一部であり、習慣と化していることが自問自答により判明した。自覚していないほど読書が日常に入り込んでいたのだ。

 私は本が好きだ。幼少期から本が身近な生活を送ってきた。紙とインクの匂いに囲まれながら文字を追っている時は、現実から切り離された世界にいるような感覚になる。ページを開けばありとあらゆる世界が広がっており、次から次へと未知の世界に誘ってくれる。私は物事を深く考えすぎたり、他人のことを気にしすぎることが多いが、文字の羅列に没頭している時は何も考えずに済む。読書中の脳内は極めてクリアだ。
 最近は区の図書館へ週1回必ず通っている。上限は10冊だが、毎回必ず10冊借りる。マイブームは児童文学だ。幼少期に読んだ作品を20歳を超えた今になって読み返すと、また違った感想や考えが浮かんでくる。昨日は、少年探偵団シリーズを4冊、南総里見八犬伝を2冊、ビルマの竪琴、二十四の瞳、海底二万里を借りてきた。

 今回、「私の習慣」というテーマの募集を見かけ、書いてみたいと思った矢先、昨日借りてきた本が目に入った。その時にふと、自分にとっての読書は、趣味なのか習慣なのかと疑問に感じ、改めて考えたのがこの投稿のきっかけである。

 人生模索中の今、習慣となっている読書は私に何を教えてくれるのだろうか。どんな新しい世界や知識が待っているのだろうか。ページをめくる手はまだまだ止まらない。

#わたしの習慣