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誰でも制作する現代とヘンリー・ダーガーと小学生の心


世界ではなく、日本に限った話ではあるが、
現代には、沢山の絵師やらアーティストがいる。
昔の時代にも沢山いた可能性もある。
しかし、今日ほど陽の光を浴びられる人はいなかったではないかと思う。(戦争、生まれた国、経済的に等)
現代はその真逆を走るほどに、街中歩けば、やれ個展、やれグループ展、沢山ある。
美大出てる、出てないは関係ない。
経歴がというのも関係ない。
誰でも展示を出来る機会が設けられている。
そして、それは別に絵が上手い、下手も関係ない。
蛸壺式にファンという関係が出来上がって、持ち上げることが出来る。

つまり、何が言いたいかというと、絵というのは、簡単に「承認欲求」を満たせるものになっているということである。

皆が輝ける時代!なんていうと、響きが良く聞こえるが、つまりは、誰でも出来るものにあるということだ。

私は、皆がやる事、皆が口々に言い出すことには、裏があると思う人間である。
靴洗いの少年の話のように。

その私が思うのは、何故、ここまで皆が、承認欲求を満たさなければ、生きていけない状況になっているのかということである。

絵を描くという行為が、自己の思考や理念を訴えるため、美術の歴史の行進のためではなく、個人が満たされるためだけになっている。

ネット社会が原因といえば、それまでだが、そんな時代に、何も考えずに、ただバズりたい!ただ褒められたい!ただ小銭稼ぎたい!って理由で、制作する人になるのは、果たして良いのか?と思う。

そして、そんな背景を支えているのは、アニメ絵画であったり、キャンバスプリントされたデジタルイラストであったりする。

デジタルが発展し、それが主流となった時代に、イラストが流行るというのは必然の流れだろう。

アナログで描くことは古いとさえ、される未来だってあるのかもしれない。

漫画表現を芸術とした村上隆氏の流れで、アニメ絵画が流行るのも必然かもしれない。

しかし、それにしても、そればかりの表現が多すぎる気がする。

どんな表現があったっていいはずなのに、どうも今はそんな表現が一辺倒な気がする。

つまりは、現代の絵画表現は、「絵の才能」ではなく、「親しみやすい才能」の方が重要視されいる。

この親しみやすい才能というのは、以下のような要素があげられる。

手頃な価格であること。
・絵を見たまま受け取るだけでいい
可愛い綺麗、などわかりやすい表現
・ネガティブ要素を含めてもよいが、あくまで「可哀想 」という範囲
・どんなに下手か上手いかよりも、アニメ的な表現であること
・複雑ではなく、シンプルに人物が1人いるだけでいい
・パースや構図とかは関係ない。それよりも人物であって、背景すらもいらない。

このような要素によって成り立ってるように感じる。
これらの表現の根底にあるのは、個人的内容の鬱屈したものである。
世間はそれに、儚さや可愛さを感じ、「エモい」と片付ける。

これによって成り立っている。
写実表現はやる必要はない。というより、それは技が目立つため、親しみやすさがないのである。

アニメ表現というのは、人物の抽象化であり、そこに入り込む余地があるのである。
現実の誰かと言われても、それが誰か知らないし、それが誰かを考える気持ちも起こらないのである。

ここから私は、現代人は、ネットを見る視線が現実にも刷り込まれてるように感じる。
小難しい内容は、考えるのが面倒くさいので、スワイプするように、現実でも考えなくてよいものを受け入れるようになっているのである。

ここに問題点が眠ってるように感じる。
考えなくてよいというのは、つまりは、「心を動かしたくない」ということである。
何事も効率よく効率よく、とされてきた現代に、生きている術として、心を動かす体験というのは、効率よくないのである。
それよりも手頃に得られる快楽の方が効率が良いのである。

だから流行る表現というのが、ただ綺麗、ただ可愛いというものになるのだと思う。

ここまでで、1600文字程になるが、ここまで読んでいる人は、ほとんどいないだろう。
(ま、作者がそんなに人気のある人でもないので、まずこのページを開いた人でさえ、少ないだろうが)

しかし、そんな面倒くさがりが溢れた現代に、絵を描く人がいるというのも事実である。
絵を描くということは、画材選び画材の慣れ構図を考える等、沢山面倒くさいことが溢れている。
それを考えると、こんなに非効率なことはない。

しかし、それを踏まえ、初めに話したことに戻ると、そこまでして「承認欲求」を満たしたいのである。

その問題の答えは、一旦避けたネット社会にある。
ネット社会というのは、誰でも好きな時間に様々な人と繋がることができること、である。
つまり、現実に関わりたくない人がいれば、その人を無視してもよい。
ネットに入ればそこに話したい人がいるから。

文字通り受け取るならば、承認欲求は満たされてるといえるはずだ。
しかし、それはない。
それは、画面の先という存在に、まだ肉体的(性的ではなく、物理的という面)に接した時のように満ち足りることがないのである。

そして、沢山の人と接することで、もっと出会えるのであれば、もっと接しなければと、行動に移さなければならなくなるのである。

1を得るのに、0.1をひたすら求めている状態なのである。
つまりは「空虚な人間関係」である。

現代人は皆、異常に寂しいのである。
昔のように村しかないのであれば、そこで満たそうとするのだろうが、途方もない距離まで広げられた世界では、満たそうとする行為が変わってるのである。

前者は、その与えられた範囲で満足しようと見つける動きだが、後者は、あくまで受け身の姿勢でその対象を現実の範囲の外側で、沢山見つけること。満足するまでの目標がでかくなっている。

その満たしてくれる対象探しに、絵が使われているのである。

私は別に、この流れに反対を言いたいわけでも、賛成したいわけでもない。
ただ、美術というのは、その表現には歴史背景が必ず含まれており、今なにが流行っているのかで、現代の問題が分かるはずなのである。

ここまでが、これから話すことのために必要な話だと思ったための内容、つまり序文である。
ここからが本題である。
(ここまで読んでくれてる人いるのかな、長すぎて面倒くさ!ってなっているんじゃないかなw)

結論から話すと、私が言いたかったこととは、「絵を描き孤独になることが必要ではないか」ということである。

どういうことだ?となっていると思う。

順番に話す。

まず、先程述べたように、承認欲求の時代になっている。
これは仕方ないことであると思う。しかし、そこに意味も理由もなく、欲のままに流されるのは良くないと思う。

そこで、1つ目として、絵を描くというのは効果的であるということである。
これも先程述べたように、絵というのは、かなり面倒くさいことで、かなり非効率的なものである。
だからこそ、絵を描くべきなのである。
しかし、その表現は、決して囚われてはいけない。
アニメ表現である必要も、写実表現である必要もない。
そして、アニメ表現でしか描けない!写実しか描けない!というのであれば、それは何故か考えなければならない。
つまり、色々考えに考え抜いて、描かなければならないのである。

これを聞くと、さらに面倒くさいことをしてると感じるであろう。

しかし、それが必要と感じる。

それは、承認欲求というのは、他者に向けているものであり、自分が自分で満たされてる訳ではないからである。

だからこそ、自分が自分で満たしている状態であるために、必要な過程である。

そして、2つ目。

それは、描いた絵は、決して人に発表、SNSに投稿してはならないということである。

これは私の実体験でもあるのだが、描いた絵というのは、物によっては、最高だ!となるかもしれない。そして、これみろよ!となるだろう。

しかし、それを我慢するのである。

めちゃくちゃしんどく、めちゃくちゃムズムズすると思う。

だが、それに耐えた時に生まれた作品というのは、自分で満足できる作品になっているはずである。
これは「私の最高であって、誰にも渡さない」と。そして、「これは誰にも理解されなくても構わない、これは私だから」と。

これは、ヘンリー・ダーガーという、誰にも見せずに亡くなった作家のエピソードを元に行動した。
この作家は、何十メートルにもなる作品を生涯誰にもみせずに、清掃員の仕事の合間に描いていたのである。そして、亡くなった後に、大家さんが見つけてくれたことにより陽の光を浴びたのである。

ここまで出来た時に、ここからの作品は、誰にも囚われない自由な発想になっているはずである。
誰にも囚われない最高の状態であるはずだからである。

つまり、これが出来た時には、一喜一憂するような気持ちなど消えているだろう。
それは、自分で自分を愛することが出来ているのだから。
作品=自分
自分が自分を愛してるということ証明である。

孤独というと、一人で寂しくなんてイメージがあるかもしれないが、それは承認欲求が必要な人間の意見である。
孤独というのは、最強の状態である。
それが本題の冒頭で話した「絵を描き孤独になることが必要ではないか」ということである。

私はそこで気づいたことがあった。
「今の状態でこそ社会と関わりを持つべき」だと。
この状態は、私は「小学生の心」と考える。
教室で先生に怒られようが、俺は勇者なのだ!と考える小学生の気持ちである。

そして、そんな小学生の時の友達というのは、承認欲求やら、制限やらがなく、立ち入り禁止を超えたり、馬鹿して遊んだはずである。

それは、類友という言葉があるように、最高の状態に何時でも慣れる自分ならば、大人になっても、関係性に囚われることなく、遊べる関係を気づけるはずである。

そんな関係ができる人同士での絵の会話(表現や作品に対する批評)は、特に楽しいものになるはずである。

人生遊んだもん勝ち
これは私の好きな言葉である。

どんな人もいずれ亡くなるのであれば、遊んだ方がいいに決まっている。
それがどんなに馬鹿だなって言われることでも。
(法は犯さない範囲で)

だとしたら、まずは他者に囚われる鎖を解かなければならない。

そのための方法として、これを上げたい。
それに、こういう正直な関係にこそ、発展する歴史が生まれるのだと思う。(宮崎駿しかりスティーブ・ジョブズしかり)

ぜひ、最高の表現を手に入れて、最高に遊んでほしい。
そして叶うなら、その眩しい作品に私も居たいし、作っていきたい。

ねぇねぇ遊ぼうー!


余談
なんかこんな偉そうなこと書いたけど、別に自己啓発本が書きたかったわけでもないし、誰かに刺さればとか思って書いたわけでもない。
最後の遊び相手探しに書いたまでである。
新しいマッチングアプリ?w
最後に、こんな4300文字もなる文章を最後まで読んでくださりありがとうございます。



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